第六十九話「ハインリッヒ・ゲシュケという男」 1999年8月9日02:00 日本 珠洲 狼煙館其の柔鉢 |
まったくの余談なのだが、目と言うコトバから「目る」→「見える」になったような気がした。 「手る」→「取る」、「足る」→「走る」、「膝げる」→「ふざける」「手首る」→「見くびる」といった具合に変化していったのだろう。 ミケくんは障子をそっと開けて、一気にスチ〜ルのドアを開けてみた、 バゴ〜ムっっっ すぐ外で何かに当たってぶっ飛ぶ鈍い音がした。 ミケくんが出ると、もんどりを打って廊下の床に付している男がいた。 慌てて立ち上がると、男は階段の手摺りに纏わりつくようにして捕まリながら階段を駆け降りていった。 (ヤツだ・・・見間違える分けはない)ある考えが頭を過ると、ミケくんは咄嗟に男の後を追い始めた。 昨日来、ミケくんたちをつけ回している男に違いなかった。 竹の間では騒動には気づかずに、再び百物語が続けられていた。 階段の縁の浮き上がった絨緞に足を取られバランスを崩して大きく蹌踉めくミケくん。 その瞬間、心もとない灯をすかして男の背中が風呂場の方に吸い込まれて行くのが見えた。 飛び降りるように階段を越えて、人気のないフロントの脇を駆け抜け風呂場に向かうミケくん。 狭い板張りの廊下を抜けて磨ガラス越しに脱衣場があった。 すでに二時を過ぎており、他の客の部屋は、すっかり寝静まっていた。 立ち止まって中の様子を窺ったのだが、不思議と風呂場の中には人の気配がなかった。 入口のガラス戸の取っ手を持つと、一気に引き開けてみた。 薄く湿った空気の中には打ち捨てられたような古い篭が幾つか転がっており、 黄色く照らし出された板の間には、特に新しい痕跡は見つからなかった。 ミケくんは、その先にある風呂場へのドアに目を止めた。 中からは弛まなく湯船に流れ込むお湯の音だけが、唯一静寂を破っていた。 そっとすき間から中を窺うミケくん、湯気の立ちこめた浴場の一部しか見えなかった。 地下水を汲み上げて使用してるせいだろうか、心なしか硫黄の匂いが鼻を突いた。 先ほど見た時には、男は確かにここに逃げ込んだのだった。 どこかに隠れているに違いない、ミケくんは思い切ってドアを開けて慎重にタイル張りの浴室に入っていった。 真っ白に湯気で覆われた20帖ほどの浴室は1mも先が見えなかった。 手探りで湯船の方に歩を進めるミケくん。 その時、背後の脱衣場でなにかが動く気配がした。 滑りやすいタイルの上で、足を取られながらも態勢を整えるミケくん、振り返ると湯気の向こうに女将が立っていた。 「あの、一時でお風呂は終わりなんですけど、お客さん」 「ああ、わかってます・・・でも今不審な男がいたので、後を追ってここまで」ミケくんは身振りで説明した。 「おかしいな、ここに入ったのを見たんだケド・・・居なくなってる」首をかしげて女将を見た。 「ああ・・ゲシュケさんですよ、うちの使用人のハインリッヒ・ゲシュケさん」およそ奥能登には不似合いな雰囲気の名前を平然と云う女将。 「は・・はいんりひげしゅけ?(^_^;)ゞ何ですか?そり・・・ナチの残党かなんか?」 「いえいえ、外国人のせいか無口でちょっと変わった人なんですけど、先月からウチに来てくれてるんですよ。」 女将はそう謂ながら、湯船に滾々と流れ込むお湯を止めた。 「外国人・・・?」どうりで、妙なアクセントだったのが頷ける。 「見ての通りここら辺は過疎で人出が足りなくなって、観光シ〜ズンはどこも困っているんですよ」女将は笑って言った。 「よく働いてくれて助かってるんですよ」 ミケくんは、聞いてて妙に胡散臭いニオイがした。どう考えても不自然な話しだった。 「なんでもドイツから旅行で能登に来て、お金がなくなったので、働き口を探してたみたいだったんです」女将は掃除を始めた。 「さッき、ここに入るのを見たんですが・・見失っちゃって」ミケくんはそれとなく探りを入れてみた。 「たぶん、もう休んでると思いますよ」おもむろに顔をあげて女将は答えた。 ここに来てから、そのゲシュケという男につけ回されてると云う話は女将にはしなかった。 ミケくんは、女将に礼を云うとキツネにツマまれたような顔( ̄◇ ̄;をしたまま部屋に帰ることにした。 庭先から低く虫の鳴く声が聞こえてきた。 振り返ると寝静まった狼煙館は物音一つせずに、ぽっかりと佇んでいた。 |