屁理屈 Kaikou. 正しい考え方を受け入れるわけにはゆかない近年スクーターを入手して、クルマよりよほど便利に使っている。 いわゆる原チャリである。 何の話かって? もう少し御辛抱いただきたい。 使ってみると案外に便利なもので、気軽にちょっと出掛けるには何の抵抗もなく乗れる上に燃費もよろしくて重宝している。 スクーターの名前は現在モデルチェンジをして4サイクル・エンジンになってしまったヤマハのVino(ヴィーノ)で、乗っているのは2サイクル・エンジンを積んだ初期型だ。2サイクル・エンジンの特徴である優秀な加速力が遺憾なく発揮されるスクーターで、現在の同じモデルにはない魅力のあるレアな一台であると云って良い。 なにしろ交通戦争の時代であるから、二輪車の場合、下手に速度が遅いと路上で危険な目に会うことが多いのは元バイク仕事の身なだけに良く知っている。ある意味で、高加速なバイクは安心なのである。その点この初期型2サイクルVinoはとにかく速い。なにしろ出足だけなら、たいていのクルマは数秒間追いつけないくらいだ(時速60Kmに達するまでの話だが)。 体重が子供並に軽いせいもあるが、わたしが乗ると滅法速い。速度が60Kmに達するとリミッターが効き始めて速度上昇は止まってしまうが、たぶん大半のクルマやバイクは初期加速の数秒間、わたしに追いつけないだろう。それくらい速いのだ。 もっとも逆に、ゆっくり発進するのが難しいのは少々難点で、その意味で新型がエンジンを4サイクルに変えたのは正解なのだろう。 というのも、わたしはスクーターはこれが初めての車種だったので、みんなこんなものだろうと思っていたのだったが、最近4サイクル・エンジンのスクーターに乗ってみて、そのスゴイ遅さに吃驚仰天したからである。 乗ってみたのはホンダのScoopy(スクーピー)という可愛い名前のスクーターで、これが本当に遅い。エンジンを掛けただけで、そのあまりに静かなアイドリングに驚いたのだったが(わたしのVinoはアイドリングがスゴクうるさいのである)、乗って走りだしてみると、そのあまりといえばあまりに鈍い加速にまた驚いた。 初期型2サイクルVinoと較べるからいけないのだろうが、エンジン音もほとんど感じにくいほど静かで、加速も静か。時速60Kmに達するのに、いったい何秒かかるのか、というくらいに遅かった。いくらアクセルを開けていても、どうもなんだか、時速60Kmが限界のようなほんわかした走りっぷりである。違いが大きすぎて驚いた。 訊けば4サイクル・エンジンのスクーターはみなそんなものだと云う。 どうやらわたしの初期型2サイクルVinoが速過ぎるらしい。話によると、Scoopyは向かい風があると時速60Kmにすら達しないらしい。ということは、リミッターで出力をカットしていると云うよりも、そもそも時速60Kmしか出ない性能のエンジンしか供えていないことになる。 思うに、どうせ法規制のため時速60Kmでリミッターがかかるなら、時速60Kmが最高速度のエンジンを積んで静粛性を上げてやれ、という設計思想ではないのだろうか。 おかげでひどく静かな、動いているのやらいないのやらよくわからないおだやかな、しかも加速のはんなりしたスクーターが出来上がったわけだが、このおだやかなスクーターに乗ってみると、十数年前に考えたことが思い起こされてならなかった。 うら若き紅顔の美青年だったわたしは(一部ウソだが)当時、つらつらといろいろな考え事をしていて、ふと交通事故について考えてみたことがあった。当時でさえ、交通事故の死者数は凄まじい数に上っていて、わずか数年で太平洋戦争の戦死者数に匹敵する人々が死んで死んで死にまくっていたのである(いまもそうだが)。 当時とて、交通事故に遭うのには理由は要らなかった。 街を歩けば事故に遭い、自宅を出れば事故に遭い、角を曲がれば事故に遭い、十分に注意していても事故に遭うような、そんな理不尽な交通事故がたくさんあった。歩道を歩いていた親子が勝手に飛び込んできた車に轢かれて命を失うような事故は、当時であっても珍しくもなかった。 歩行者や、自転車は、無力である。時速数十Kmの、最低でも1tに近い鉄の塊にぶつかられて、無事でいられるわけがない。死んで少しもおかしくはない。車同士ですら、その巡航時の破壊力は刀や銃の比ではない。時速数十kmの1t近い物体同士が接触すれば、その運動エネルギーは大砲の弾丸とさして変わるまい。その可能性が絶えずあることを、皆が知りつつも、しかも、皆が凄い速さで狂った鼠のように集団で疾走してゆく。 そして物凄い数の人間達が、ささいな不注意やちょっとしたミスでこの弾丸に押しつぶされて、毎年理不尽に死んでゆく。 当時のわたしは、交通事故と呼んではいるが、これは要するに殺人じゃないか、とそう思っていた。車の免許はすでに持っていて、一年生の時は通学におそろしくポンコツな軽自動車を使って自動車通学していたから、車の危険さも、交通事故のあまりに簡単に起こることもよく知っていた(事故を起こしたことはないが)。あの当時の愛車、赤い、というか昔は赤かったらしいスズキのアルトでさえ、簡単に人を殺せるであろうことは容易に想像できた。学生ごときにしてからが想像できるくらいだから、大の大人がそれを想像できないはずはない。にもかかわらず、路上には人を殺す気で走っているとしか思えないような車も多々見かけたものである(いまだってそう違いはないのだけれど)。 だから当時のわたしは、車に乗るということは、自分に殺人が可能になるということである、といちいち肝に銘じては(きぃきぃ云うドアを開けて)車に乗ったものである。それくらいの覚悟がなければ、車に乗ってはいけないと思っていた。 わたしですらそうであったくらいだから、当然、大人達もそれは理解しているはずであった。そうであるならば、 我々は、人を殺す可能性を十分承知して車に乗っていることになる(そのはずだ)。 言い換えれば、それは、車に乗ることが、すなわち人を殺す可能性を承知して行う行為であることを意味する。 すなわち、人は人を殺す覚悟が少しあってこそ車に乗っているのだ、ということである。人を殺す可能性があることを承知して、人は車に乗っているのだと、当時のわたしは思っていたのである。 そうであるならば、車が人を殺すのは、その可能性を承知の上で、運転者が殺した、ということになる。 なぜなら、車は人を殺せる道具だからだ。殺せる物を使って、殺す可能性のある行為を行うのだから、それは殺す可能性を承知の上で車に乗った、ということであり、すなわち殺す気が少しあったということである。 当時、うら若き紅顔の美青年だったわたしは(一部ウソだが)たいへんに繊細で潔癖で純真であり、またそれが当然なような好青年だったので(一部ウソだが)、車に乗るからには、人を殺す責任を覚悟した上で乗らねばならないし、みんな当然そのつもりでいると思っていた。 ピュアである。若かったからそれでよろしい。 当然、車が人を殺したならば、それは事故ではなく、未必の故意であり、要は歴とした殺人である、と思っていた。いまでもそれはそう思っている。ただ、そのことと車に乗る行為とを、イコールであって同じく罪で有り得るとは思っていないだけだ。 当時のわたしはうら若き紅顔の美青年で(一部ウソだが)たいへん純真だったから、そこらをまだ若干混同していたけれど、その覚悟を決めて乗っているといえば聞こえは良いが、要は自分も乗っているのだから世話はない、わざわざ覚悟をしなくとも、嫌なら乗らなければ良いのである。その上、覚悟を決めるより、人を殺さぬように全力を尽くす方がよほど健全だ。 まぁ紅顔の美青年などというものはたいていとっちらかっているものだから、この程度のとんちんかんな悲壮さを背負っていたりするものではあるのだが、そんな風に素っ頓狂な的はずれの覚悟を決めつつ、やっぱり便利なものだから車に乗っていたのだから可愛らしいものである。 そうして奇妙なほどの生真面目さで車に乗ってみると、奇妙なことに気がついた。 速度標識である。 どこも40Kmから50Km、遅いところで30Kmの標識が出ているのだが、 誰もそんなモノ守っちゃいねぇ。 たまに守っている人がいたりすると、遅すぎて追い抜きの車が多く出て、かえって危険だったりする。 車に乗り始めの頃には誰しも思うことだろうが、時代を問わず場所を問わず、大概はそんなものである。 しからばあの速度標識には、なんの意味があるのか? 当時のわたしはしばらくピンと来なかったが、やがてはたと気がついた。 その速度なら、そりゃあよっぽど安全だろう。 あれは、安全速度を示していたのだ(しばらくして気がつくようなことではないが)。なるほど、と納得して、当時のわたしは思った。その速度域で全ての車が走っていたら、なるほど、利便性はある程度そのままに、さぞかし交通事故が減るだろう。その低速度なら、なるほど、避けられる機会の増える類の事故の形はさぞ多かろう。 あれは、理想として示されたモノだったのだ。たとえ現実には、誰も守ろうとしない法規制なのだとしても。 ここで、しかし、無駄な規制を、と思う前に、当時のわたしはまず考えた。 もしも、車に乗る全員がその規制速度で走ることによって、事故死がだいぶ減らせるのなら・・車を使う限りそれは無くなりはしないにしても・・、それは何故に守られず、また守ることを可能にする方法はないものなのだろうか、と。 答えはすぐ出た(当たり前だ)。 我々が、構造上、無限に欲をかく生き物だからだ。そして安全でない速度でも、危険はあまり意識されず、しかも、速度が「出せるから」である。 構造の話は別の機会に譲るとして、我々という生き物が、欲をかいて欲をかいて、欲をかきつづけることによって進歩し、発展し、生存域を拡大して限りを知らず増殖する類の動物であり、個人においても全体においても欲を満たすことを至上の価値とするからである。 我々の歴史は欲をかく歴史である。文化とはすなわち定型化した欲の消費であり、発展とは欲の実現に他ならない。便利で安楽で過度なことこそ、我々が世界に求めるものであり、およそそれが実現可能なことであるなら、ささいな(!)数の人間の死も、有毒性も、将来の危険性も、なにもかも見えないことにして(あるいは本当に見えなくなって)鼻息荒く利便性を選ぶことこそ、我々の、我々らしい、そうあるべき理想の姿であり自然な姿であるからなのだ。 もっと皮肉に書くつもりだったのに皮肉に書けなくなってしまったほど、それはそら怖ろしい我々の自然な姿である。ちなみにこの一行は皮肉だが、怖ろしすぎてやや毒性に欠けるのが少々残念だ。 我々は便利な道具がそこにあってしかも使うことが可能なら、なんとしてもそれを使うのだ。多少危険だろうがなんだろうが、そんなもの、利便性の誘惑の前にはタンポポの綿毛ほどの抵抗にもならぬ。 まさしくそのようにして我々は文明を生み、まさしくそのようにして我々は車を生み出し、道路をこれでもかとこさえて、次々と安楽で便利な社会を作り出してきたのだから。 法規制や、交通事故の意識はあっても、車という高速度移動が可能な機械を操る機会がその手にあるなら、我々は、欲を押さえたりはしない。なんとなく、もっと速く、もっと便利に移動するために、我々は速度を落としたりはしない。もっと速く、物を届けるために。もっと速く、時間を節約するために。 それは善であり、美であり、人間の正当なる欲の正義とされる。もっと便利に、もっと安楽に、もっと高速に限られた時間を生きるために。 そんなもん、車で飛ばせばスグだよ。 我々は、人を殺すかも知れなくとも、利便性を求める欲を押さえたりはしないのだ。たとえある個人がそれを押さえて走ってみようとしても、周囲を圧倒して走ってくる膨大な数の高速な欲の塊に、その意味の低さを確認して臍を噛むのが関の山である。 かくして、速度規制の標識は政治家の顔看板と同様の忘れ去られるべき幾多の塵芥の横に並び、見逃して良い日常の風景に溶け込んでその意味を無くす。 我々は、たとえ全員が意識していようとも、自らみんなで速度を落とし、交通事故死を減らしましょうなどと務める、そんなタマでは無いのだ。 危険を感じない程度にならば、みんなそろってアクセルを踏む。 また、我々は速度規制を規制として感じていない。なにしろ周囲の全員が守っておらず、咎められもせぬのだから無理もない。咎めにくいのも確かだし、咎められたら咎められたで、理不尽に思う(実に理不尽な話だ)。 倫理規制は、我々にそれを押しとどめさせるだけの罪悪感があり、さらにその違反に非日常的な動機を要するものでないならば、いつでも、どこでも、いとも簡単に守られないし、実際、守られてもいない。 車に乗る行為は、事故を起こさない限り罪悪感を感じるようなものではないし、また日常の道具であるから、それを高速度で使うのに(言い換えれば規制に違反するのに)非日常的な強い動機を要するようなものでもない。乗り出して、アクセルを踏み込めば、ほら、簡単に違反が出来る。そして現に、みんなが違反している。 我々は・・・。 それがみんなに許されていることならば、そしてそうすることが便利で楽なら、理念を実行したりはしないのだ。現にしない。 それが、それこそが、我々の隠された信念だからである。我々は欲に従う。欲に規制がされるとしても、それがいとも簡単に破り得るものならば、雁首揃えてみんなで破る。 そして、いざ人を殺した後に、やっと、一時の反省をする。やがて、忘れる。 それが我々の本質だから、我々は速度を落としはしないのだ。 従って、現在よりもっと強力に、はるかに強力に、我々の欲に規制をかける権力がない限り、安全速度での車の運用は実現しない。 危険だ、という意識も持ち難い。制限速度でもし走ったら、死者の数はぐっと減るだろう、とわかっていても、では制限を少し越える速度に危険を感じるのかというと、実は全然感じない。 車の運転者なら、時速60Kmの速度に身の危険を感じることは少ないだろう。たまにはひやりとすることがあるにせよ、絶対的にそれが「怖い」速度だとは思い難い。そして、自分が事故を起こすことも滅多にない。ある特定の個人に限って観察するなら、大事故を起こすことはもっと少ない。 視点を全体から、実際の運転者である個人に移してしまうと、速度の危険性は、たちまち見え難くなるのだ。実際、我々は制限速度以上の常用速度に、さして危険を感じて運転しているわけではない。 身の危険を感じずに、我々のような欲の塊が、どうしてアクセルを踏む足の力を緩めるだろうか。 我々は、なぜ安全速度で走ろうとしないのか? 規制が現実味を持たない、つまり禁止として機能しないのは何故か? 禁止できないからだ。 我々に欲があり、危険を感じておらず、速度が出せるからである。 取り締まろうにも、疾走する車を取り締まるのが難しいことは容易に知れる。みんながみんな、法に違反している状態で、どうして有効にそれを取り締まれるだろう。 しかも、違反することは、車に乗るだけでできるのだ。 誰でも、いとも簡単に。 そして、滅多に罰せられない。そしてさらに、個々人の歴史に限って見るなら、滅多に殺人を起こすことはない。個々人の確率で見るならば、滅多に危険な事故も起きない。つまり、危ないという重大な危機感は生じない。 それなら、そりゃあ危険速度で走るだろう。できるんだから。しかも、危ないという意識は薄いし、安全な速度はわかっていても、利便性への欲は消せない。そしてアクセルを踏み込むだけで、車は簡単に安全速度を遙かに超えてするすると走っていってくれる。 いったい、誰が、絵に描いた40Kmの安全速度で走るだろうか! ちょっと考えればそれが安全速度だとわかるとしても、罰せられることが滅多になくて、60Kmでも安全だ、という意識があるなら、そして、ちょいとアクセルを踏むだけで簡単に安全速度を超えられるなら、たとえ膨大な死者の数を知っていたとしても、いったい誰が、制限速度で走るというのか? 車は制限速度を超えられるのだ。 最初から、そのように作られている。我々の欲を現実のものにするために。 欲深い我々の、夢を実現するために、安全でなかろうが、人を殺すことが出来ようが、車は、破壊力を高めて作られ続ける。 これだけの好条件が揃っていて、どうして事故死が減るだろう?。 笑ってしまうような構図ではないか。あたかも我々の全体が、交通事故死の増加を目指して、刻苦鋭意努力しているかのようだ。そして、その通りなのである。それが我々の、発展という正義なのだから。 では、事故死は、減らせないのだろうか? 当時のうら若き紅顔の美青年たるわたしは、ひとつのことしか思いつかなかったものだ(一部ウソだが)。 すべての車がゆっくり走れば、事故死が減らせるならば、当然、すべての車がゆっくり走ることができれば良い。 人間達の意志が、それを実現できないのは現実が教えてくれる。わたしだってそんな低速では走らない。危なくて仕方がない。 罰則も法も、動き出した車を止める手段を持たない。みんながみんな違反しているものを、取り締まっていてはキリがない。 そして車は、安全速度を超えて走るように設計され、生産されている。 誰でも思いつく方法だ。 意志もダメ、法規制もダメ、それなら、性能を規制したら? 物理的に、ゆっくりとしか走れない、速度が出ない車だけを生産し、そんな車だけが走っていたとしたら? 安全速度で走る以外に、方法がないではないか! 意志がどれほど欲をかこうと、法の規制を気にしなかろうと、物理的に出ない速度は出せない。低速度でなら、危険回避も衝撃力の低下も容易に達成できる。 そしてなにより、それは、唯一実現可能な、現実的な方法なのである。 そうだろう? 走り出した高速な車の、速度を押しとどめる意志は欲深き我らの全員にはない。一部の者が強い意志を発して、頑なに制限速度で走っていたとて、交通事故死が減るわけではない。大多数の車が速く、危険回避の難しい速度で走っていたなら、事故死は起こり続けるだろう。車の数を減らすことも出来ない。我々のこの欲深い社会の利便性が、膨大な数の車によって成り立っていることは云うまでもない。それこそ、気が狂ったような数の車によって。だから車の数は減ることはなく、欲が深ければ深いほど、ますます増えてゆくだけである。それらの車達の全てが、危険回避の可能な域を超える速度で走りまくっていれば、そりゃあ危険に決まっている。 だが危険回避の可能な速度の車しか、走っていなかったなら、事故死は実際に減るだろう。避けられるんだから。 ものすごく当たり前なことを云うのもどうかと思うが、低速度なら、止まれるのである。まさに、あの意味の薄い看板が「50Km」と示しているように、安全速度域でなら、危険は減らすことが出来る。 誰でもそれは知っている。 だが、実現する意思は欲に負け続ける。規制しようにも、違反者の数が多すぎてどうにもならぬ。車の数も減らないだろう。 だが、では、生産する車が軒並み低速度な社会は、実現不可能なのだろうか。 実現出来るのだ、それだけは。 生産を許さなければ良いだけである。改造してもどうにもならぬような、低出力で加速の鈍い、最高速度のとても遅い車のみ、生産が許される社会。車社会の全構成者が、ゆっくりとしか走れない社会。そして、死者が減る社会。 意志の規制は出来ずとも、走っている車の規制はできずとも、生産する車の規制は可能である。それだけは、法規制が可能なのだ。これほどに高性能な機械を設計可能な技術があるのだ。その逆に、驚くほど低性能な車を実現することが、難しいはずはない。 無論のこと社会の生産性は落ちる。鮮度の高い食品は手に入りにくくなり、移動には時間がかかり、流通はもっとゆっくりになる。 我々は、いまよりもずっと豊かさを失うだろう。人の命と引き替えに。 いますぐにというわけには行かぬから、何十年もかけて、徐々に社会意識から変えて行かなければならないが、社会がその実現の意志を持ったとき、それは、実現できるのだ。 もっと便利に、もっと安楽に、もっと高速に、と発展してゆく社会の欲が、意志の前に曲がることが有り得るとすれば、それは、その意志が、実現不可能なときである。 人の命と引き替えに、その社会発展の欲を、実現不可能なものに規定して現実化するとき、我々は、死者を減らすことが出来るだろう。 低速しか出ず、加速もゆっくりとしか出来ず、どう頑張っても高速を出せない、出力が現在の半分にも満たない車の生産をしか許さない社会。個人の欲がどれほどにだらしなく深かろうと、その意志に安全速度を期待できなかろうと、安全速度しか出せない社会。車社会の全員が、そのことに納得した社会があれば、事故死者は減る。 そこまで思って、そして、若いわたしは、空を眺めた。道路脇に停車した小さな、赤い、いや赤かったらしいポンコツのハンドルに持たれて、ウィンドウ越しに空を眺める他はなかった。 それは実現可能であり、そして、実現しないだろう。 満たせる欲を、我々は捨てないだろう、と若いわたしは思った。 だって不便じゃん。遊びに行くのに時間かかっちゃうじゃな〜い♪ 事故死者の減少と引き替えに、生産性の低下と、利便性の放棄を認めるようなことを、我々の社会はしないだろう。 発展と利便の欲を、過度に実現してはいけないものと規定して実現不可能に持って行くには、我々の社会は未熟に過ぎる。 交通事故死の膨大な数は、発展と利便の欲を、過度に実現することの弊害を端的に示している。おそらくそれは、事故死という一面に限らず、メンタルな意味も含めて、社会の全域に渡って云い得ることだ。しかし我々は、社会の全員がそこに目を向けるほどには、まだ成熟していない。 だから若いわたしは無言で、もう一度エンジンを掛け、びゅんびゅん走る膨大な車の列に戻っていった。この車達がすべて人を殺せないほどに力弱く、いつでも止まれるような低速で、もたもた、のんびり走っていたなら、それはどんなにか死者の少ない車社会であるだろうかと、そう思いながら。 そんな、十数年前の感傷を、4サイクルのとても遅いスクーターは思い出させてくれたのである。 低出力で、どうがんばっても低速しか出せないように設計された車。加速がトロくて、向かい風があると60Kmに達することさえ難しい車。 死者の少ない理想の車社会を可能にするであろう、最初から低性能に作られた車の姿が、現実にそこにあった。そのほんわかした加速に身を任せながら、わたしは一瞬だけ、かすかな幻の夢を現実に重ね合わせてみた。 のんびりした、力無い車達の社会。 それは今思い直してみても、どこも間違っていない考え方である。流通社会の発展を犠牲にして、社会の進歩に待ったをかけ、低速で低出力しか出せない車だけを生産して、事故死者を減らす、便利さへの欲を我慢する社会の構築。 それは我々に実現可能な、現実味を持った交通事故死者減少の手段である。 だがそれを実現すれば、我々の社会からは利便性も一緒に減少する。車社会はそうものすごく便利なものではなくなり、移動には時間がかかるようになり、流通は滞って今のような高速流通を前提にした物流は不可能になる。当然、社会はいまよりも不便になる。 この解決方法は、社会を発展させないことによって死者の減少を実現させる方法なのだ。そして、我々は発展という欲をしか見はしない。 我々は、便利な社会に暮らす欲のためならば、事故死者の数には全力で目をつぶりつづけるだろう。 もっと速く、もっと便利に、もっと安楽に。 だっておいしい店が遠くなっちゃうじゃ〜ん♪ オサカナだって新しいのは手に入りにくくなるじゃ〜ん♪ だから、我々にとって人が死ぬのはしょうがないことなのだ。便利なのだから。 我々はそうした生き物であり、そのように生きてきた。そのように発展してくることこそ、我々の、正義なのである。我々は、見えないところで常に人を踏みつぶして欲を満たしている。ただ、そのことに気づいていないか、気づいていても目を逸らしているか、気づいた上で哀しく思いながら諦めているか、気づいていても気にしないだけだ(だぁって関係な〜いじゃな〜い♪)。 誰にでも正しい方法は思いつく。だが、こうした前向きな方法を考えることは、我々の欲を後ろ向きに押し返す。だから、我々は、正しい考え方を、受け入れるわけには行かない。 だからこそ、我々の社会は、このように発展してきたのであるし、それは人類の進歩と呼ばれる。便利で簡単な欲の実現こそ、人の命にも勝る、我々の正義だ。 我々は正しい考えを受け入れたりはしない。そうすることによって我々の生活が不便になり、それまでのような過剰に豊かな生活を送れなくなるならば、我々はそれを正しい考えだとは見なさず、いやあるいは正しいからこそ、受け入れるわけにはゆかない。 そうして我々は、今日も豊かな社会発展の正義を担いで鼻息荒く(排気ガス荒く、か)みんなそろって驀進してゆく。こんな豊かで優れた社会を、たかが死者が出るくらいのことで、どうして捨てたりするものか。だって、こんなに便利じゃないか。それはとっても良いことなのだ。たとえ何万人が死のうとも。 だがどうだ、ここにホンダのScooyがある。そんなつもりがあったかどうかは知らないが、どうがんばっても制限速度が限界の、最初から非力に設計されたマシンがここにあるじゃあないか。 乗用車もトラックも、どうしても、制限速度、あるいは安全速度が最高出力の限界だったら、どんなに死者は減るだろう! 再び、そう思わずにはいられないじゃないか。わたしはまだロマンチストなのだ。 この穏やかなマシンの音(るるるるるる、という音だ)を聴いていると、「できるんじゃねぇかよ」と思わずにはいられないのだ。 それでも、我々は正しい考えを受け入れないだろう。 もっと速く! もっと快適に! もっと安楽に! もっと安直に! もっと手軽に! 我々の便利で快適な社会のために。 街でもし、このあきれるほど遅い静かなスクーターを見かけたら、これを見てそんなことを思い出したバカもいるのかと、そう心の隅につぶやいてみていただきたい。そして、もしかしたら、我々には別の道も有り得るのかも知れないということを、心のそのまた隅っこにでも置いておいていただけると、わたしは少しだけ安心をする。 我々は正しい考え方を受け入れるわけにはゆかないだろうが、ひょっとして、ひょっとしたら、我々の未来はまったく閉ざされたものではないのかも知れないと、そう、思えるからである。 それとも、将来、我々は現実に社会的な合意に至って、 |
all Text written by Kaikou.