世の中には奇天烈な人がいるもので、例えば世間話に病気の話が出たりすると、
「だってさ、死んじゃったらどうするの?」
なぞと言い出すスットコドッコイをたまに見かける。
わたしはヘソが480度ほど曲がっているので(いったん360度回転して、一度は素直になっているところがミソである)、こうしたコンコンチキな言葉を聞くと茶が沸くほどに腹が立つ。我ながら偏屈だとは思うのだが、腹が立つものは仕方がない。そうではないか?
なにしろ死んだらどうするのと来た。
どうするもこうするも、死んだ人がどうもするわけがない。死んでるんだから。(当たり前だ)
死んでからどうかすることがあると思っているなら、それは救い難く脳天気なのか、あるいははなはだしく思慮が浅いか、さもなくばオツムが足りないのだから、笑うか、腹を立てるしかないではないか。哀れむとか、ものも言わずに殴るという手もあるが、すくなくともわたしなぞは腹が立ってしかたがない。
そう人に尋ねるようなイカレポンチは、きっと自分が何を言っているのか把握していないのか、さもなくば自分が何を問いたいのかすら自分でわかっちゃいないのだろう。それなら口など開くんじゃねぇ、とひねくれ者は腹を立てるのだ。
皆さんご承知のことだが、言葉というのは、案外に危険な道具である。言葉の使い方は、自分自身の思考様式すら決定するほど、他人よりむしろ自分に影響を与えるものだ。言葉を安く使うものは、自分を安く育てているのだと思わねばならない。言葉の使い方は、十二分に意識してすら、思考、引いては
自分の自我に与える影響大である。人は、自分の言葉に引きずられやすい。
安易に使った言葉は、その使用者自身を安易に貶める(それも実際に貶める)効果を持つから、こうした思慮のない言葉の使い方を訊くとわたしは残念で腹が立つのである。もっと自分を大事にしろと、余計なお世話で腹が立つ。(世話のいらない話だ)
もちろん、死んだらどうするの? と訊くスットコドッコイは、意味の違うことを言いたいのだとわかってはいる。死んじゃったら困るじゃないか、とか、死ぬのは怖いじゃないか、とか、死んだら困るからどうにかしなきゃいけないから「どうするの?」・・という意味で訊いているのだとは思う。
だが、むべなるかな、その意味ですら、この問いはスットコドッコイなのだ。
死んだら困るじゃないかというなら、もちろん困ることなどありはしない。死んでるんだから。困るもクソも、困る本人が死んでいるのでは困りようがない。
死者を冒涜する気はない。念のため。
死ぬのは怖いじゃないかというなら、怖いのは生きている間で、死ぬことが怖いはずはないのだ。死者が怖がることはない。死んでるんだから。死ぬ以上は意識は無くなり、無い意識が怖がろうはずはない。怖いのは生きている者の、死にたいする意識に過ぎぬ。そして本当に怖いかどうかは、死んでみなければわからない。そして本当に死んでいるなら、怖がる意識はとうに無いのだ。
あなたは眠りに落ちるとき、怖い怖いと思うだろうか。
怖いのは無論、生者の死に対する印象なのだ。だが実際問題として、いったいなにが「怖い」だろうか?
死ぬのは痛い、という意見なら、痛いのは別に死でなくたって怖いし、痛いのは死の前であって、死そのものは痛くない。ある意味で気絶なのだから。意識がなくなるのが怖いというなら、怖くて眠ってなどいられない。
二度と意識が戻らないのが怖いというなら、それはどこかが変である。
意識が戻らないと、いったいなにが怖いだろうか? 怖がる意識が戻らないのに。戻らない意識は怖がったりしない。それは見ている側が怖いのだ。
意識が戻らないとどうなっちゃうんだろう? というなら、それこそどうなるもクソもない。どうなるのであれ、意識は出来ない。戻らないんだから。意識できない出来事なら、何が起ころうと気にすることなど一つもない。(なにしろ、気にしようがない)
自分が無くなってしまうから怖い、というなら、それもどこかが変である。
無くなってしまうなら、それは無くなってしまうだけのことで、怖がる理由になりはせぬ。無くなってしまうのが惜しいというなら少しは解るが、それは惜しいのであって怖いのではない。ついでにいうと惜しんだところで無くなるものは無くなるのだから、いくら惜しんでもなんにもならぬ。
実際、自分が無くなってなにが怖いだろうか?
自分が無くなると、なにか怖いことが自分に起こるのだろうか?
もちろん起こりはしない。無いものには何も起こらない。それは単に、執着の裏返しに過ぎぬ。そして無くなることを恐れるほどに、「自分」とは御大層なものだったろうか?
そんな御大層なものじゃないとは、大人ならみんな御承知だろう。
残された者がどうなるのか不安だ、という意味で怖いのだろうか?
もしもそうなら、それは気にすることなどではない。無くなる方ではなく、残された方が気にすることだ(彼らは生きていくのだから)。いくら気にしたところで、死ぬものは残るものではないのだ。気にする側に立っていないのだから、不安に思うのはおこがましいというものだ(気持ちは解るが)。無論、自らの死をあらかじめ感じ取っていて、残される者達に何か残しておいてやるのは大いに意味がある。しかしそれも、残された側に意味があるのだ。無くなる側のする心配は、なんであれ杞憂にしかならない。無くなる側に(死後)意味の生じることはない。
なにが起こるか解らないから怖い、というなら、それは一番、的を射ている意見だろうが、解らないことは怖いことではない。それは「怖い」のではなく、「解らない」のだ。案外臍で茶が沸くほど楽しいかも知れぬではないか(悪い冗談だが)。
そう、「死ぬのが怖い」の本体はコレだ。みなさん御承知の通りである。
だがそれは、未知のことに対して、考えないから不安なだけだ。
考えてみるが良い。
なにが起こるかは「解らない」。
痛い、苦しい、気持ち悪いは感じる意識が消えてしまう。
困る心も無くなってしまう。苦しむ心も無くなるのが死だ。
いったいどこが怖いのだろうか。いったいどこに、不安に思うべき点があるだろう。痛い苦しい気持ち悪いところ? それは死ぬ「まで」で、死ではない。解らないことが不安? まだ起きていなくて解らないことを不安に思っても、それこそ仕方がないではないか。どうなるかわからないのだから、どうかなってから不安かどうか判断すべきで、どうかなる前に不安がるのは筋が通らぬ。その上、死んだらどうなるか解ることは「ない」のだ。解る主体が無くなるのだから。永劫普遍に、解ることは「ない」。そんなもの、不安かどうかそれこそ解らぬではないか。
そんな、困りも、解りも、恐がりも出来ぬことについては、どうするもこうするもないのだ。(当たり前だ)
自分ですらどうするもこうするもないのに、まして他人にどうするか問うようなことではない。だいたい問われても困る。いったいこれを他人に問うスットコドッコイは、他人がそれにどう答えると思っているのだろうか。「うん、俺は死んだらこうするよ」と誰か答えるとでも御思いなのだろうか?
(仮に誰かがそう答えたとしたら、そいつはずいぶん見上げた馬鹿だが)
この問いは、死というものを心に思ったことのない唐変木の戯言に過ぎぬ。そしてそうと問うことで、唐変木は自分から思慮する態度を奪ってしまう。唐変木に磨きがかかる。だから言葉は怖ろしいのだ。
昔から有名な伝承があるではないか。
mement mori (死を思え)あるいは(死を忘れるな).
と。唐変木は御聞き及びでないのだろうか。
だから皆さん、「死んだらどうするの?」などと誰かに向かって問うべきではない。
そんな唐変木になってはならぬと、わたしは思う。
なりたいならば止めはしないが、好きこのんでわざわざスットコドッコイになることもあるまい。
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