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屁理屈 Kaikou.

アナタノ、ヒミツ




  あなたには秘密があるのをご存じだろうか。

  実のところ、あなたには二つあるのだ。

  一つは、今現在の瞬間のあなたで、もう一つは、あなたの記憶が作り上げた観念のあなたである。

  今現在の瞬間のあなた、刹那のあなたは、いまこの瞬間に環境と情報のやりとりをしているあなただ。「この一瞬」を感受しているその瞬間のあなたなのだが、おわかりいただけるだろうか。

  一瞬、一瞬、過ぎ去ってゆく瞬間ごとのあなただ。全ての時間の先端にいる、まだ過去になっていないあなたが、「この瞬間のあなた」であり、いまこの駄文を読んでいるまさにこの瞬間のあなたのことである。

  これとは別に、あなたには、過去になったあなた、あなたがあなた(ややこしいが、つまり自分)だと思っているあなたがいる。過去にあなたであったものであり、そして、あなたを形作っている価値観や、判断の規則や、行動の基準であるところのあなた、である。

  あなたが普通意識している自分、というのは、この後者の方のあなたである。

  わたしはこういいうことが好きだ(キライだ)、こうするのがわたしらしい、わたしはこう考える、わたしに云わせれば他人はこうだ、わたしはこういう人間で、だからこうする。そうした考えを持っているところの、「わたしらしさであるところのわたし」だ。

  過去の経験やそれに対する判断、誰かの影響を受けた考え方、周囲を観察した記憶の積み重なった価値体系、他人からどう見られていると感じている(いた)記憶、自分に対する判断、それに対する感情の記憶された結果として身に付いた感性の形で自覚される、あなたの意識し得る「わたし(自分)」の像のようなものだ。中学生のような言い方をすれば、わたしってどんなにんげんで、どうしたいだろう、とあなたが思ったときの自分。あなたが自分を意識したときの、対象となる自分。そして単に自覚の対象となるだけでなく、「瞬間のあなた」が判断をする際に、その手足を掴んで操っている人形師のようなあなたのことである。

「瞬間のあなた」は日常や非日常の状況に日々出会い、判断して行動しようとするとき、かつて似たようなことがあったとき自分はどうしたか、この時自分ならどうするか、と記憶の糸を素速く手繰り、あるいは過去をなぞり、あるいは過去に例のないことを試そうとほとんど一瞬で状況を判断し行動を決める(あるいは決めない)。この時記憶を手繰るその対象であり、データベースと化しているのは過去に瞬間を生き、うまくいって我が意を得たり、うまくゆかなくて唇を噛んだり傷ついたりした記憶の塊としての、この「観念のあなた」だ。そうしなくては、人は行動の決定が難しい。まして世間を生きる大人のあなたならなおさらにそうだ。自分はこれでいい、自分はこうする、そう決めた、その自分が、この「観念のあなた」である。

  うまく云えていないかも知れないが、好きやキライや、つまらなさや面白さの記憶が積み重なった結果できあがった、経験の塊としての一個の価値体系であるあなたが、あなたの中には存在している。

  それとは別に、今現在この瞬間に現実に対応しているあなた、というのがいる。これはまさしく瞬間のあなたで、判断や行動を「しなければならない」当事者としてのあなただ。その後ろに、かつて瞬間のあなたであって過去と化し、記憶や価値観の体系を両手にいっぱい抱えた観念のあなたが疑問に答えるべく待ちかまえている。

  いまこの「瞬間のあなた」には感情など無い。判断する根拠の価値体系もない。それらは後ろを振り返り、「観念のあなた」に相談して話がまとまったときに現れるのだ。

  その結果はふたたび記憶となって「観念のあなた」の血肉となりふたたび「瞬間のあなた」の相談役となり、指針となる。

  まるで自分自身が次々と入れ替わり立ち替わりアリストテレスを演じ続けてゆく無垢なアレキサンダー王子のように。(あまり一般的でない喩えかも知れないスイマセン)

  まるで自分が次々と体を替えては弁慶を演じて消え去ってゆく義経と、新しく舞台に現れる義経のように。(少し一般的な喩えになったろうかダメですか)

  子供の頃には未分化であっても、長ずるにつれて、あなたにはこの二つのあなたが現れる。少なくとも、賢い大人を演じられるようになったはずのあなたには。

「瞬間のあなた」は、まさにあなたと現実との反応そのものである。刹那ごとに消えてゆく瞬間のあなたはまさしく現実にいるホンモノのあなたで、見たり聞いたり感じたりして感覚し、知覚し、行動する。その刹那が過ぎ去って瞬間のあなたが記憶になると、それは観念のあなたに姿を変えて記憶の座にどっかりとあぐらをかく(正座でも椅子にかけるでも良いが)。瞬間のあなたが自分を思い起こすとき、思い起こして見ているのは観念のあなたで、観念のあなたはあたかも瞬間のあなたであるかのように振る舞う。

  特に実際に手の中にはない大局の行動を決定するとき、、瞬間のあなたは観念のあなたを思い浮かべ、それに安心したり嫌悪したりして行動を決定する。二つのあなたは表裏一体であると同時に、フィードバックする相互関係の中にもあって、あなたの総体を気持ちよくしたり不快にしたり残念がらせたりしてゆく。人間の、がちゃがちゃした混迷と懊悩は、この関係の中に発生するのである。

  この二つは表裏一体で、相互持たれあいの関係にありながら、「別のもの」なのである。同じ一つのものを形成していて、同じではない。

  もしもあなたが「瞬間のあなた」だけだったなら、あなたは移り気な幼児と同じか、さもなくばおサルさんと同等であって、さして複雑な社会的・政治的なこと、あるいは腹芸の真似は出来ないかわりに、懊悩もしない。

  する必要がないからである。

  社会性や複雑な情報整理を行わないから生き延びる耐性には欠けるだろうが、すれ違いに悩むことも慚愧の念に駆られることも空虚な価値を夢見て自分を追い込み殺してゆくこともない。そのかわり、いまという瞬間だけを両手の届く範囲で生きて死ぬことになる。

  本来、生物がそうであるように。

  しかして人間性というヤツは、この瞬間のあなたと観念のあなたの複合体のことを指しているから、御立派な人間様をやっている限りあなたはこの二つを切り離して生きることはできない。

  人間は観念の動物だが、それはこの二つの相関関係があってはじめて人間らしさが醸し出されることをいうのである。

  そして、多くの場合、この二つはあまり一致していない。

  瞬間のあなたと観念のあなたの間には、同じあなたを為すものなのに、案外と不一致があったりする。

  本当の自分探しとやらを初めちゃったりする人は、この不一致が大きいのだろう。その違和感を自分でもうすうす感じていれば、自分が自分らしくない、と奇妙な思いを抱いてもちっともおかしくはない。しかしたいていの場合、それはそっくり一致しているものではないのだ。

  観念のあなたは、あなたの価値判断が加わった、いわば色の付いた眼鏡で見たあなたで、自分らしくないと思う価値体系の部分も社会性(と本人には思われている解釈)や理想化された自己像実現のための不自然な虚像としての行動指針が付加されていて、結果瞬間のあなたがどちらかと云えば動物的なピュアな自己像なのに対して不自然な服を纏ったようなズレをだんだんと生じさせてゆく。

  このズレが、あなたをして溜め息をつかせたりがっかりさせたり、必要以上に喜ばせたり、夢を見させたり、大きな行動に駆り立てたりする原因となる。簡単にいってしまえば、あなたが形成した価値観と、反応する瞬間のあなたとの差異だ。観念のあなたは解釈が加わったあなただから、いびつに形成されることもままあり、またそれだからこそ不自然に(そう、不自然に)人間的な行動に駆り立てる原動力になり得るのである。

  まぁ、大概の人間はそうだろう。たいていはそんなものである。

  普通、あなたのなかの二つのあなたは一致しておらず、あなたは瞬間のあなたと観念のあなたとのフィードバックを「(あたかもひとつであるかのような)あなた自身」として、がちゃがちゃと生きて行く。滑ったり転んだり、欲をかいて夢を見て、喜んだりがっかりしたり。ときおり溜め息をついて、人生こんなもんかと思いながらも、そうして生きて死ぬだろう。そして中には、瞬間のあなたと観念のあなたにえらく大きなズレがあって、毎日のように懊悩しているようなこともあるやも知れぬ。

  もしもそうであるならば、思い出して見なさるが良い。

  観念のあなたは、瞬間のあなたに、似ていますか?

  もしもまるで似ていないなら、それはおおいに問題である。まるで似ていない架空の自分に、無理をして合わせることはない。瞬間のあなたが振り返ったとき、心の後ろに見える観念のあなたがまるであなたに似ていないなら、あなたは自分の観念の記憶を捨てちまってもなんの差し支えもない。あなたがそんなあなただったか、観念の自分に聞いてみると良い。そしてできれば、お手々繋いで、仲良く歩いてゆくのがよろしい。

  ところで、聞くところや見るところによると、どうも、世の中にはこの二つが一致している人間というものがごく希にいるようである。

  寡聞にしてわたしはその現物というのと知己を得たことはないが、のほほんとしていて、よく喋るでもなく、黙り込むでもなく、気負いなく、覚悟なく、欲もなく、見栄もなく、頑固でもなく強気でもなく弱気でもない、一見何も考えていないバカであるかのような、それでいてごく普通の、特に何の特徴もない静かな空気のような人が周りにいたなら、その人が多分そうである。

  いるらしいのだ。そういう、あまり見ない人が。

  誘われれば出掛け、なにもなければおとなしくしており、欲もかかなければあきらめてもいない、淡々とした激しくない、それでいて信念を持って黙っているのでもない、腹に何もない人。

  現代の、欲をかいて見栄を張ってガツガツと行動したがる麻薬中毒患者のような常識的な人間像から見れば、なんだかぽっかりと抜けているような、それでいて違和感のまるでない、周囲に溶け込むような人が、どうもいるらしい。その人はたぶん淡泊で、常識的な一般の人々、つまりキ○ガイのような落ち着かぬ欲深い人々から見れば、まるでおバカさんのように見えるだろうけれど。

  その人は、瞬間と観念の自分の間に、そう違いがない人だ。あまりにピュアで有りすぎて、ある意味ではバカといってもあながち間違いではないのだろう。けれどその人は、自分本来の感覚とズレた意味と価値とでがちがちになった観念を背中にしょっていないぶん、揺れもしなければブレもしない、淡泊な動物のような懊悩のない人で、たぶん伸びやかに生きて死ぬだろう。絶望もせず、大喜びも感動もせぬままに(絶望と感動は表裏一体なのである)。

「瞬間のあなた」と「観念のあなた」がもしも一致していたならば、あなたはそのように見え、またそうなるはずである。その二つにズレがないならば、その人はどんな意味でもすごいと感心されるようなたいしたことはせぬまでも、淡々と刹那の現実との関係をごく自然に実現しながら、あがくことなく生きて死ぬだろう。欲も出せないかわりに、悔しがることも絶望することもない。瞬間の対応と観念の行動様式とが一致しているならば、複雑な行動や思案はとれないかわりに、常に現実と一致した自分でありつづけることができるのだろう。瞬間のあなたが対応するべき現実は、あらゆる欲さえかかなければ、そう複雑でも、たいしたものでもないからである。

  できればそうなりたいものだ、とわたしなどは思うが、あなたは如何思われるだろうか。たぶん、それは可能なことなのだが。



2004/05/04




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