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屁理屈 Kaikou.

馬鹿馬鹿社会




  人間の集団において、個人の人格が「他人を馬鹿にすること」、いいかえれば自分と他人を差別化することによって個人として成り立っていることは、何処の場であれ観測される普遍の事実である。

(ただしここで「馬鹿にすること」と呼んでいるのは、イライラのあまり暴言を吐くことではなく、自分の選択として他人を否定、もしくは侮蔑することである)

  「あんなことするなんて馬鹿じゃないの?  ぜったい馬鹿だよ」とは、どこの場所、どんな集団、どんな個人にも(あるいは密かに)見受けられるありふれた感情であることに、異論をさしはさめる人はあまりいまい。   人が、人を馬鹿にしつづける様が、どの集団、どこの社会でも普遍的なのは、それが人の、(困ったことに)個人足り得るために必要な要素だからだ。

  個人の人格が行動の統一的選択として機能する以上、選択「されなかった」行動がある程度否定されていくのはやむを得ないのだろう。人間が、他人、あるいは他人の行動を馬鹿にすること、否定することで常に自分の行動の指針を作り出し、自分を修正しつづけていかねばならないというのは、隣人愛といった言葉が逆立ちしたって及ばない、普遍的真実というヤツである。こういう情けないことが普遍的真実だというのもこの上なく情けない話なのだが、実際に普遍的である以上は、それこそやむを得ないというものである。

  実際、他人の価値観を否定して、それ以外の価値観を想定して行動するところに、個人の「わたし」が成り立っているのだから、勢い余ってそれが(表立ってであれ、密かにであれ)他人様を馬鹿にする形で表出したとしても、そしてそれが常に繰り返されるのだとしても、そうそう腹を立てるわけにもゆかない(非常に歯がゆい)。

  他人様を馬鹿にすることが、翻って自分の行動の指針になる、というわけだ。

  当然すべての個人は他人様(あるいはその一部、あるいはなにか)を馬鹿にすることで、その個人足り得ている。個人が強烈に個性的であればあるほど、それは強い他人の否定、「強力に馬鹿にすること」によって成り立っている。意識しているにせよ、していないにせよ、それは個人が、「自分」であるために必要だからである。

  道徳にも同じことが言える。道徳的であるためには、道徳的でない行為を否定し、馬鹿にして、侮蔑しなくてはならない。

  人格者、と言われる人々にも、やっぱり同じことが言える。卑近であったり、矮小であったりする考え方を「馬鹿にする」ことで乗り越えてはじめて、人格者がいるからだ。(卑近、矮小といった定義こそ、まさに馬鹿にすることなのだ)

  たとえば年を経て人間が「丸くなり」、円熟して尊敬に値する人となった老翁達は(もしいるならばだが)、他人様とその行為を馬鹿にしまくることで、円熟の域に達したのだと思ってよい。不遜を承知でいうなら、かのゴータマ・シッダルタ王子(お釈迦様ですな)などは、悟りを得るまでの長い道のりの間に、他人を馬鹿にすることの量が、それこそハンパではなかったのではあるまいか(もっともこのお方は、それを「超越」して仏陀となったのだそうだが、それがどんなものなのか私にはよくわからないのでとりあえず悟りの後はどうなのか、という判断は保留しておく)。

  だからといって我々が彼らよりマシだといいたいのでは無論無く、人間である以上はみな等しく、という意味で話したのであって、別段人格者を虚仮にしているわけではない。彼らにおいてすらそのようにしか人格(自分)を構築できはしない。我々一般小市民においては、なにをかいわんやである。

  さて、これを認めてしまうと、面白い(あるいは面白くない)ことになる。

  あなたもわたしも隣のあの子も、みんなみんな誰かの事を馬鹿にしている、ことになる。
(ここでは、私ああいうことするの嫌いなの、といった軽い表現をされる行為の差別化をも、「馬鹿にすること」の中に含めている)

  なんとも微笑ましい、ハート・ウォーミングな話ではないか。しかもそれは、相互に「馬鹿にし合う」関係なのだ。

  橋の欄干腰掛けて、道行く人を眺むれば、心に浅くあるいは深く、あいつは馬鹿だと皆唱えている。

  人々が相互に馬鹿にし合うことでその人々自身が自分として成り立っており、なおかつ人間社会がそのことによって個性の集大成であり得るのだとすれば、こんなに心暖まり、腹の捩れる話はそうそう無いというものである。

  人間らしい、まさに人間らしい。人は誰かを、あるいはなにかを馬鹿にすることで、まさに人間らしく生きている。腹が捩れて、片腹痛い。

  そして、無論筆者もその一人なのである。爆笑というものではないか。

  これはしかし、まさに人を人たらしめているという点で重大なことなのだ。「馬鹿にする仕方」によって、人はあるいは貴くもなり、卑賤にもなる。人間模様がそこに初めて可能になる。

  人の生き方は、言いかえれば、なにをどう馬鹿にしているか、それによって決まるといっても過言ではない(片腹痛い)。

  今日も、明日も、明後日も、そしてもちろん昨日までも、人は誰かを馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にしつづけて自分らしく生きている。否定が無ければ、馬鹿にしなければ、人は自分らしい行動を選択し得ない。

2001/09/28




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