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屁理屈 Kaikou.

あ俺(わたし)、莫迦だから




  つまらない小話を少々。

「あ俺(わたし)、莫迦だから」

  とはある種の人々がよく使う、たいへんよく知られた責任忌避言語である。

  おおむね言い訳のつもりで使われる言葉だが、この言葉について、ひとつだけ、気にくわない点がある。

  それはこの言葉の裏に、

「そう言えば許してもらえるのが当然である」

  したがって自分が責任を感じたり、責められたり、態度改善の努力をするような必要は「あるはずがない」、言い換えれば

「自分が責められていいはずがない = 自分は許されるのが当たり前である。(なぜなら、わたしは莫迦なのだから)」

  という、何の言い訳にも、理屈にさえなっていない、気持ちが悪くなるほどの強烈な自己中心性と甘え、内省の忌避が隠れている点だ。

  子供について云っているのではない。この言葉は、ほとんどの場合、自制や研鑽といった自己修練を極端に嫌うある種の大人、それもその種の努力を要しない立場の、暗黙裡に約束された成人達が使う言葉である。(お気づきでしょう?)

  この言葉は不気味な宣誓だ。

「わたしは(何をしても)許されて当然のはずだ」という、実に気持ちの悪い自己認識の、それは宣言なのである。

  何の根拠があるのか知らぬが、この言葉を使う人々のとめどなく甘ったれた自己弁護の傲慢不遜さ、そしてこの言葉の裏に隠された真の意味に気づかぬ無思慮を、わたしは憎悪さえする。

  ある種の人々は当然の権利のようにこの言葉を行使する。

  そうしてその想像を絶する幼稚な甘え、まさしく乳幼児のごとき無茶苦茶な自己中心性を、これもまた当然の権利のように周囲が認知することを要求し、恥じるはおろか認識すらしない。

  大人げないとは思っちゃいるが、一生に一度だけ、言わせていただきたい

莫迦なら治せ莫迦


  治るんだから。(残念ながら、わたしの場合は少し治っただけだったが)

  いうまでもないことだが、「莫迦だから」というこの魔法の宣誓は、どんな言い訳にもなっていないし、ましてや免罪符になどならぬ。莫迦だというなら、それは自分のせいなのだから。
(ご存じだろうか?  莫迦というモノは、なろうと思ってはじめてなり得るものなのだ。なにも考えぬ路を選ぶことによって)

  なんの理由にもなりはせぬ。ただ、「わたしは(なにをしても)当然許され、愛されるべき」だと、自己卑下をもって言い換えているだけである。

  きっと彼らは、誤って取り返しのつかぬことをしてさえも、あるいは他人の悪い噂を流し、それがばれて責められてすら「あ俺(わたし)、莫迦だから」と言いたがるだろう。

  乳幼児の主張である。

  自分を莫迦と言い換えるなら、何をしても許されるのだと、彼らは思っているのだろうか?

  思っているのだ。

  まるで両親に、自分は子供なのだから悪いことをしても大目に見てよと訴えかける、姑息な子供であるかのように。

  そして彼らが、自分は莫迦なのだからと言い放つとき、彼らを莫迦だと定義するのは、こともあろうに他ならぬ、彼ら自身なのである。
  そしてもちろん、彼らは自分たちが莫迦だなどとは、つゆほどにも思ってはいない。目的のために偽装するのだ。

  彼らは、「そう言えばすべては許される(に決まっている)」と思っているから、免罪符としてこの言葉を放つのである。責任を要求される過ちや、失敗をしでかしたときに、決して自分に悪いところがあると認めぬために。

  それはただ、

「なんでもいいから許してよ。わたしは(なにをしても)悪いはずないんだから」と言っているだけだ。この自己認識の不気味さに、わたしは戦慄さえする。なんと不気味な人々の、この世に存在することか!

  ひどいのになると、
「俺(わたし)莫迦なんだよ!?  許してくれないの!?」
  とまで言う。(実話。しかもあろうことか一桁を越える複数例)

  甘ったれ振りが豪快すぎて、吐き気すらしてくる。

  言い換えれば、こう言っているのだ。

「わたし(俺)、なにをしても許されるはずの子供なんだよ!?  許してくれないの!?」

  いうまでもないが、大人の言うことではない。

  そして当人達は、自分が莫迦だなどとは一欠片だに思っておらず、その場しのぎに擬態を演じるだけなのだ。

  正直に申し上げるが、わたしは一度だけ、この言葉を使ってみたことがある。使ってみてすぐ後悔した。この言葉の隠し持っている意味に、気づいたからだ。(この些末な一点において、わたしは彼らを明確に卑下する)

「自分は絶対に許してもらえるのが当然である」という発想からしか、この言葉は出てこない。きっとこの言葉を口にする人々は、世界は自分に尽くし、奉仕するのが当然で、自分が責めを負うことなどあっていいはずがないし、自分が自分を磨く必要など、この世の何処にもあるはずがないとでも思っていらっしゃるのだろう。

  すべての人間が、根本的にはそう思っているのと同じように。赤ん坊が、そう頑なに信じているのと同じように。

  普通一般の人が、そんなわけではないことを学習し、人間に普遍的なこの「赤ん坊の原理」を抑え込んで人格を形成していくのに対し、ある種の人々においてはきっと、その成長過程において自分の未熟と不全と卑怯に気づいて自己認識を改める機会を、ころりと失念したまま成人してしまうのだろう。(あるいは、認める度胸と誠実さに欠けるのかも知れぬ)

  この点にこそ、人間の、人間らしい姿が現れているとは思うのだけれど、だからといって赤ん坊の原理でそのまま動く大人がいるのはどうにも不気味だ。たとえ、表面をどのように取り繕っていたにしても。価値観の違い、といってしまえばそれまでだが、わたしはこれでも自己啓蒙主義者(内省主義者)なので、そうした態度を嫌いにならずにはいられない。その種の態度に、自己愛ならあれ、他者へのなどあろうはずはないからである(失礼。恥ずかしいことを書いてしまった)

  そしておそらく悲しむべきは、この言葉を使う限り、この言葉を使う人々に、成長のあろうはずがないことである。これさえ言えば許して貰えると(一切の自己研鑽は積まぬで良いと)、強く信じて生きているのだから、成長の要があるはずもない。そして彼らは常に、この言葉によって許される立場に立っているのだ。そうでない場所に立つものが、この言葉を吐くことはない。わたしのように興味本位で言い放ってみない限りは。
  彼らの人生、それはさぞかし楽な人生であろう。そして、はなはだしく卑劣で意地汚い人生であろう。

  コ汚ねぇ田舎の片隅で、ひそかに人の世の幸福を願う小心な身としては、悔し涙を流さんばかりにその情けない甘えた思考が不愉快で、済まぬが許し難い。

  誰しも許し難いものがあることを、せめて許してもらいたい。

「あ俺(わたし)、莫迦だから」と言いさえすれば、いかなる反省も、自己錬磨もせずに楽しく愉快に暮らしていけると思う人々のいる限り、世に幸福の在ろうはずもない。例え幻想に過ぎぬとしても、それが在って欲しいと願う身に、彼らは邪悪と映るのだ。わたしにも正邪の観念があるのだとしたら、それはまさしくこれである。

  自分を、人間をよく見ようとする態度の裡にしか、そこにしか、人の幸福はあり得ないとわたしは思うからである。かくのごとくわたしが思うのはなぜならば、

「あ、俺、莫迦だから」



  おあとが宜しいようで。

2002/07/20




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