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屁理屈 Kaikou.

あれも欲しいこれも欲しい




  我々はモノを買うことで生きている。

  必要と思われるモノや、必要と思われないモノを買うことで生きている。

  働いたり、働かなかったりしてお金を得ては、それを使うことで生存をし、なおかつお金を使うことの中に生きている。

  働かなかったりして、というのは奇妙な表現に聞こえるが、小遣いをもらう子供がそうだし、働かなくともお金が得られる場合もあるので特に間違っているわけではない。

  生存に必要なモノを買うのはもとより、生存に必要ないモノを買うためにも、我々は生きている。それはあたかも、お金を得て、それを使うために生きているようなものでさえある。要が無くとも我々は服を買い、車を買い、マシン(PCのこと)を買い、携帯を買い、オモチャを買い、菓子を買い、煙草を買い酒を買う。しまいには音楽演奏会や劇映画、遊技場の入場券、などというものまで買う。

  それらはいわゆる要らぬモノである。無駄遣い、と呼ばれる類だ。だが、これは要らないモノを買うのは控えましょう、という話ではない。

  我々は、要らないモノを買うことはしない、という話である。

  我々は要らないモノを買うことはないし、買ったこともない。

  お金には、正しい使い方がある。

  そして、"すべてにおいて"ちゃんと正しく使われている。

  お金という対価を必要とするモノを、手に入れる必要が生じたときに、対価として渡すのがお金本来の使い方だ。もちろん、お金というもので、必要なモノを手に入れることができる環境下での話だが。

  例を出せば、あなたが夜間、明かりのない道を行かねばならない必要が生じ、灯火がないと危険な場合に、お金を出せば懐中電灯が手に入る環境にあるとき、あなたが(電気店やコンビニなどの)商人にお金を渡して懐中電灯を受け取ることが、お金の本来の使い方である。

  あるいは空腹な時に、お金を払うことで食料を得、空腹を解消するのがお金本来の使い方である。寒いときに暖かい服を買って寒さを避けるのが、お金本来の使い方なのだ。

  お金を払うことで必要を満足させることが、お金の使い方なのである。

  そして、現在もそのように使われている。たとえ買うのが、要りもせぬ缶コーヒーでも。

  もう一度繰り返す。我々は、お金をその本来の使い方において、現在も正しく使用している。

  必要なときに懐中電灯を買い、食料を買い衣服を買うのがお金本来の使い方なら、化粧品を買いマシンを買いテレビを買いカメラを買い、缶コーヒーを毎日買うのも、お金本来の使い方なのである。

  我々は、必要なモノを買っているのだ。

  グッチのバッグも森英恵コレクションも、GREYのCDもジッポーのプレミアムライターも、我々は、必要だから買っているのである。

  それが自分には必要だと、我々自身が判断したモノを、我々は買う。

  それが、客観的に観て必要なモノであるかどうかは、関係がない。

  要らぬモノを次々と買う人はそれが必要だと判断しているのであり、要らぬモノをあまり買わぬ人は、必要だと判断しているモノが少ない、だけなのである。

  必要なモノを判断するのは、個人の意識と無意識である。ココロ、だ。

  我々は肉体的に我々であると同時に、精神的にも我々なのである。我々は肉体と精神を同時に持っている。それらは不可分なものなのだ。

  肉体的に必要なモノがあると同時に、精神的に必要なモノが存在している。(繰り返すが、客観的に観てそれらが必要なモノであるかどうかは、必要を判断する主体においては関係がない)

  先に挙げた懐中電灯の例は、肉体的に必要なモノではないだろう。必要だ、と意識が判断した結果、必要になったモノだ。精神が、必要としたモノなのだ。肉体的に必要なモノかといえば、無用なモノである。それは論理的な判断だからやっぱり必要なモノで、たとえばコンビニで買う雑誌などは必要なモノではなく、無駄遣いだ、という判断は成り立たない。

  我々は論理的でない判断などしないからだ。すべての判断は、主観的であり、同時に、それなりに論理的なのである。普遍的客観的に論理的な判断ではないのではないか、それなら論理的な判断とは言えないのではないか、という議論は通用しない。論理とは、主観的なものだからだ。

     論理はあくまでも主観的なものである。主観を離れた論理が、もしあったとしても、人間には関係がない。人間が操る論理は、どこまでいっても主観的である。

  人間は主観的でしかあり得ないからだ。人間が客観的になることはできない。

  主観を離れて判断することは、人間にはできないからである。他人には、なれないのだ。まして不特定多数の他人になるなぞ、なにをかいわんやというものである。

  たとえば毎日毎朝、判で押したように缶コーヒーを買うのは、それが、そうする人にとって「必要なこと」だからである。その人には、そうすることが必要なのだ。

  これは人間が、その個人的な世界解釈と安心希求の原理に基づいて生きているが故に生じる事態だ。

  我々の世界は、一人一人において完膚無きまでに異なっており、すべての個人において世界の受け止め方が異なり、その理解も異なり、そして一様に不安定であることから、客観的に論理的でない、と見える論理的な行動が生じるのである。

  我々は一人一人においてすべて不安定であり、精神は不安を感じている。誰も安心していない。誰も満足しておらず、誰も完全な理解などしておらず、誰もが生き方などわきまえておらず、どうすればいいか誰も知らない。

  我々は、一人残らず不安なのである。

  そして我々は、一人残らずその不安を良しとしていない。良しとできない。不安であることに…耐えられないのだ。

  そうして我々は不安をなくそうとする。すべての人間が、そうしようとしている。一人の例外もない。すべて人間は、自らの感じる不安定を無くそうとする。それが我々の、行動する理由、である。だが、これこそはとてつもなく厄介な、人間の、まさに人間らしい行動なのである。

  不安な点は共通していても、不安の形は様々だ。なにが不安で、どうして安定していないのか、誰も知らない。肉体的に不安な場合もあるし、精神的に不安な場合もあるし、その複合した場合もある。(判断するのは精神なので、突き詰めればすべては精神的な不満、とはいえる)。

  いずれ皆不安には違いないのだが、不安の形(感じ方)は一人一人で皆異なっている。これは人間の感じ取る「世界」が、それぞれの経験学習により主観的に形成されるものに他ならず、経験も、学習も一人一人において異なるが故の格差である。世界を構築する際に与えた意味が、皆異なるが故にそうならざるを得ないのだ。我々は、一人として同じ世界には生きてはおらず、一人として同じように世界を捉えたりはしない。このことが、不安解消の行動を千差万別なものにする。

  不安をなくすには、不安の原因に見当を付け、どうすればそれが解消されるか考える必要がある。誰もがそうしようとして、そして違う世界に生きているが故に、てんでんばらばらな解消法を「発見」してしまう。それぞれにおいて、論理的に、だ。

  原因に対する見当が皆異なるために、そこから出発した論理は皆一様に論理的でも、結果はめちゃらくちゃらなものになる。

  ほとんどの場合は、「楽しい」が不安解消の目安として採用されて、この実現に向けて怒濤のごとくに進撃していく。ただし、あっちゃこっちゃに、だ。

  そして、「楽しい」の実現を目指して、てんでんばらばらにモノを買う。買って買って、買いまくるのだ。アレを買えば楽しい(かも知れない)、不安でなくなる(かも知れない)、それ買わなくちゃ、と金が飛ぶ。(モノを十分に買える状況にあってもあまり買わない人の場合は、モノをあまり買わなくても楽しい(と感じられる)状況にいるか、楽しいことを不安解消の方法にしていないのかのどちらかだ)。

  不安を解消しようとすることは、生きていることの内である。生きることは、人間においては、本来の意味だけでは足らぬのだ。肉体的に生存し、寿命が来たら死ぬことを、人間は、生きているとは捉えないのである。それが、人間だ。

  それが真に正しい姿勢かどうかは関係がない。本人達において、それは、紛れもなく正しいのである。それが人間の「生きること」に他ならぬ。人はパンのみにて生くるにあらず、言葉にて、綺麗な服にて、豪華な家にて、美しい食器にて、見事なクルマにて、流行のグッズにて生くるのである。

  ある者はクルマにて、ある者はシャネルの香水にて、ある者はいかした皮ジャンにて生きる。ある者は次々とコンサートを聴いて生き、ある者は何も持たずに生きる。そうして不安を押さえ込み、強く生きようとする。たとえ、そのすべてが、端から見て見当はずれであったとしても。

  人は、そのようにしか生きていくことができない。どのように乱雑に見えても、どのように高貴に見えても、あるいはどのように清貧に見えたとしても、していることは皆同じである。強く、もっと強く、もっと不安がないように。そして人は…

  必要なモノを買い続ける。買うのではなく違うモノが必要だ、と判断する時まで。そしてそれらは同じことなのである。買おうが、買うまいが、我々は必要なことしかしない。

  大の大人が携帯グッズを買い漁るのも、それが不安なく生きるのに必要だ(と感じる)からで、新車が出ると買い換えるのも、それが不安無く生きるのに必要だ、と思われるからに他ならない。暗い夜道を歩くのに懐中電灯が必要だ、と思われるのとなんら変わるところはない。そしてその二種の買い物は、人においては同等な価値を持つものなのだ。

  危険を避けるのに必要なのも、不安を無くすのに必要(だと思われる)のも、個人においては等価である。どちらも、生きるのに必要なモノだ。肉体的に、ではないけれど。

  要らぬジュースも、要らぬ指輪も、生きる不安をうち消すためには、必要なモノに他ならぬ。それは人が世界から受け取った、意味の不安を打ち払うための剣である。あるいは意味の不安な世界の中で、デッカイ面をするための、それらは鎧なのである。  もしもお金がなかったならば、モノと交換するだけだ。働いて金が貰えるならば、働け、そしてモノを買え。世界に生きるイヤな不安を、買い得たモノで打ち払え、たとえ一夜の夢であっても。

  そうして今日はアレが欲しい、明日になると、コレが欲しくてたまらないのだ。

  生きていくために。少しでも、不安や不満がなくなるように。アレを買ったら楽しい(かも知れない)、コレを買ったら不安が無くなる(かも知れない)。そう、それらは、生存に必要なのだ。

  だから我々は、今日も正しくお金を使う。食料を買うのと、まったく等価に、要りもせぬモノを買いまくる。

  たぶん、死ぬまで買いまくるだろう。

  モノ達は、そのために売られているのだから。モノを造り、送り出す側も、そうすることで不安を無くすべく努力しており、あまつさえ代価にお金を得て、そうして彼らも、要りもせぬモノを買うだろう。まったく、世の中は良くできている。我々は、ひとつもおかしなことをしていない。寒気がするほど、良くできている。

  そのようにして、我々は今日も生きている。そうでない生き方もあるにはあると、わかっちゃいるけど、止められない。

2002/01/13




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