屁理屈 Kaikou. 「人殺しの正義」2001/01/14付けの新聞によると、全日本教職員組合とかなんとかが主催する01/13の教育研究全国集会の「少年事件を考える」シンポジウムとやらで、青森県の高校生が 「なぜ人を殺してはいけないんですか」 と大変大事な質問をし、シンポジウム参加者の父母・教師殿達は、昔カッとして友達を殺しかけた思い出話(どんな思い出や)や、「昔では考えられない言葉だ」とかゆーなんの真摯さもない現実逃避のお言葉、そして戦時中の昔話などでお茶をお濁しになられたのだそうである。 私が嘆息したのを、いったい誰が責められるだろうか。こう言っちゃあ先生方に失礼だが、教師という職業が非常に忍耐の要る、辛い仕事であることを考慮してもなお、先生達、あなたがたの、なんとものを教えてくれない薄情な教師ぶりであることか! 私は傍観者としてこう言っているのではない。はるかな昔、私は小学校低学年の教師に対し、こう質問したことがある。 「1足す1は、どうして、2になるんですか?」 質問する方もする方だが、教師には、応える義務があったと、わたしはいまもこの教師に若干の恨みがないわけではない。教師はこう応えた。「そうなっているのよ」、と。 先生、あなたは確かに正しい。哲学的なまでに真実を突いた答えだ。1足す1が2になるのは、確かに、人間がそのように世界を定義したからだ。だが幼い私は、そんな答えを聞きたかったわけじゃあないのだ。「1」という観念とは何か、それらを「足す」という操作によって、どうして「2」という別のものが形成されるのか。私は先生、あなたの哲学的な答え(本人がそういうつもりで発言したのかどうかは、大いに疑わしいものの)よりも、もっと構造的な、このシカケのカラクリを教えて欲しかったのだ。 そしてもちろん、この世のすべてを探求しているわけではない学部卒の先生殿は、んなことを知っているわきゃあなかったのである。 そのことを責めはすまい。教師を選べとは教育の王道らしいが、学区制の生徒で、しかも教師の大半がたかだか教育学部卒のたんなる教育職人である環境に対して、そんな心躍る答えを淡々と教えてくれる教師を期待した私が馬鹿だっただけのことである。私はこの時以来、ヒトにものを教えてもらうことが不可能であることを知った。知れば知るほど、私の教えて欲しいことは、世の中の、大半の人が知らないことだとわかったのである。だからこの教師を責める理由など無い。そーゆーものだ。(とはいえ先生殿、可愛い生徒の質問だ。10年間必死に勉強してでも教えてくれたって、罰は当たらなかったんじゃあねいかい? ってそんな暇ねいか。なにかとイロイロあるんだろうしね) 結局私は、自分で調べ上げ、自ら勉強する以外疑問の答えを得る道はないことを、その後に知った。だが時々は思うのだ。世の先生達は、そんなことも教えられないのなら、いったい、なにを教えているのだろう? (もちろん、教科書の解説だ。方針に乗っ取った全力疾走の) 新聞記事は、この私の記憶をすっかり再現している。もっとも質問した方が、幼かった私のように答えを知りたくてワクワクしながら問うたのか、それとも今時の学生らしく答えなど返っては来ないことを知り抜いた上で問うたのかは、知るすべもないが。 そして先生方は、例によって、いまだにそんなことにゃあ答えられはしないままなのだ。か−いそうな学生よ!(しようがないから、自分で調べろ。世の中には、そーゆーことを考える哲学屋(暇人ともいう。騒動屋の一種)ってやつが、まだ少し残っているから。肩書きは、イロイロだけど) むべなるかな、教師の方々。どーして答えてやらないの? ってサラリーマンには無理だわな。仕事だから。しかしながら、戦時中の昔話を持ち出して誤魔化したジジィにゃ殺したいほど腹が立つ。態度がデカクて申し訳ないが、戦争までやって、あんたはなんにも学ばなかったんかい。頭には酒がつまってるんかい。 閑話休題。興奮してしまった(面目ない)。 だから、とゆーわけではないのだが、またこう教えれば良かったのにとは思わないが、これぐらい答えてやって物議を醸してくれりゃあ良かったのに、ぐらいの気持ちで、いってみよう。 「人を殺すのは、なぜいけないのですか?」 正当防衛と戦闘状態を除いて法がそれを禁止しており、なおかつ、集団の構成員がその法をルールとして認めているからだ。 (まわりくどい表現だが、こうしないと正確にならないと思う) 殺人の禁止は、それが悪いことだからではない。殺人自体は、良いことでも、悪いことでもない。状況に応じて、良いことになったり、悪いことになったりするだけだ。定義とは、絶対的な姿勢でありながら、相対的なものなのである。 殺人を悪いとする根拠は、法以外にはない。少なくとも神がそれを悪いと決めたわけでもなければ(そうと信じているのでない限り)、人間の普遍的な感情に照らしてそれが悪いことだからでもない。神は、そうと信じていない限りいないし(あるいはいるかどうか人間には断定できないし)、人間の普遍的な感情とやらに照らせば(あるんなら、だが)、殺人は悪いことではない。その証拠に、いったい何千万人の人間が、自ら望んで殺人者となり、人間を合法的に殺しつつ、その後平和で幸福な一生を送ったことだろうか(兵士達のことだ)。あるいは憎悪による殺人は、それこそ、普遍的な現象ではないのか? そうなら、それは、(なんともはや)人間の普遍的感情なのだろう。非常識なことに。 だから、そんなことは理由にはならない。殺人が悪いのは、それが法によって(一般的には)悪いこと、とされているからだ。 そして法は、基本的に、みんながそうあって欲しいという理想的な社会状態を維持するための秩序として生まれる(みんなが望んだのでない場合もままあるが) つまり、殺人は、みんなが悪いことであって欲しい、と望んだことによって、悪いことに「なった」のだ。 殺人は、それが法によって、引いてはその法の賛成者達によって、悪いこととされた場合に限り、悪いことなのである。 ついでにいえば、みんなが「そんなことはしたくない」と思ったから、という理由は、理由の半分に過ぎない。世の中には、「殺人をしたい」と望むものが、実に、実にあきれるほどたくさんいるのだ。(証拠? 新聞読みな)だから理由はそれだけではなく、「そうされたく(殺されたく)ないから」というのが理由のもう半分を占める。さらに言えば、「(社会内部で)殺人が起きると社会の運営に都合が宜しくないから」という理由も含まれている。 戦争状態において兵士達が人を殺すのは、法によって、引いてはその法の賛成者達によって、悪くないとされることなので、悪いことではない。小難しい条件をクリアした場合に適応される正当防衛も、同様だ。ついでにいえば、死刑も、殺人には違いないのだけれど、合法である限り、悪いことではない。 そして一般の社会を生きていく場合、その多くは、殺人が法によって、引いてはその法の賛成者達によって、悪いこととされる社会、なのである。 だから、(普通は)人を殺しちゃアカンことになっているのだ。 と、これっくらいの(私にすら思いつく程度の)ことは、答えてやれなかったのかね、先生方。 かーいそうだよ、子供達が。 無理だろうけどさ(←拗ねている) そして、私も人を殺してはいけないと思っている。 では、私は、どうして人を殺してはいけない(と思っている)のだろうか。私が、殺人を禁止した法の賛成者だからだろうか。 こういうことは自分に聞いてみるに限る。私の頭の中にあるのが「真実の動機」で、外部にある観念が真実の動機であるわけではない場合が、びっくりするほど多いからだ(嘘だと思うならイロイロなことを自分に聞いてみるがいい。ぶったまげて自信をなくすほど、自分は意外なことを考えている。(気づかないだけだ)。 私は、なぜ人を殺してはいけないのですか?
これが自分の第一の答え。 第二の答えはえらい幼稚で、
つまり私は、自分の価値観と恐怖に基づいて、殺人を自粛しているのだ。 私にとって、人を殺すことは自分の中の「いけないこと」に分類されるから、そして自分が殺されたくないから、私は人を殺してはいけないのである。 なんということだろう! 法律が禁止しているからだなんて、思ってもいないじゃねぇか!(笑) (ほらびっくりした) 人はその成長過程を通して、間断なく現象や行動の「ネーミング(名前つけ)」、「レッテル貼り(分類と価値判断)」、「レッテルを貼った瓶の選択(行動の選択)」を思考し、学習し、記憶し続ける。私もその例外ではない(ちなみに、これが人格と云うものであり、自我と呼ばれるものだ)。 そうして行動の基準を時々刻々と累積することで、人は行動を選択している。私が上記のように人を殺すことを、選択すべきでない行動と分類するのも、そのような自我の活動(学習効果)の結果だ。 要するに私は、そのように世界から「学んだ」のだ。生き物の、生きてゆくべき武器として。ある意味で否応無しの自主的な世界学習の過程で、私はそのような価値観を選択し(私にそのような価値基準を選択させた根元の基準は、たぶん「気分」だ)、その結果として、人を殺すことを「いけないこと」と自ら定義し、自分に禁じている。 そして、そんなことはすっかり忘れて、何故だろうと考えるとき、法による禁止を思いつく。外部に、明文化されてある理由として、唯一つ法が、説得力を持ち得たからだ。 では私は、法とは無関係に、自分自身の基準だけで殺人を自らに禁じているのだろうか。 そのとおりだ。私は、自分の価値基準に照らして、人を殺してはいけないと思っている。 では、法による禁止は、人を殺してはいけない理由ではないのだろうか。 いや、おそらくそうではない。法の成り立ちを考えればわかる。 法による禁止は、上記文中で挙げているとおり、基本的には、みんな(その法を成り立たせている集団の構成員)が、それを禁じて欲しい、と願った場合に、総体の同意として政体によって審議され承認されて成立する。 。 したがって、法による禁止は、少なくとも、その集団の構成員達の大部分が、自分の価値基準に照らして禁止して欲しい「いけないこと」に対して発生する。 人を殺すことが、それだ。 人々の望みのおおまかな総意として、法がそれを人々に禁じる。そして、人々は安心する。世の中は、自分の価値基準と同じ基準で秩序づけられており、自分価値基準が脅かされたり(否定されたり、自分の価値基準と異なることを強制されたり)しない「正しい」仕組みで律せられており、自分にとって自然な世の中で安心だ、と。 これはしかし、法というものが、普遍的な価値観を代表していることにはならない。法は、人々の十人十色の価値観の判断した、「結果」(の多く)を、代表するものだからだ。そして、人を殺すのはいけないことだ、と、思わないものも、世の中にはそこそこ多くいるのである。だから殺人の禁止は人々の価値観の判断した結果の総意ではあっても、普遍的な価値観にはなり得ない(普遍的という言葉が、例外を含むことはない)。 そうして法が禁じた結果、禁止の理由は人々の価値基準に基づいた自粛から「法律で禁止されている」に切り替わり、外部から人々を律する。言葉が、人の価値基準を決めるようになるのだ。 しかしいけない理由はいけなくない理由を孕み、完全には廃絶しない。法は大多数の人々に対する禁止にはなり得ても(大多数の総意の故に)、全員の総意には多くの場合なり得ず、また人間ならぬ国家の意思を禁ずる効果は持ち得ない。 この結果、国家の認める戦闘行為の殺人は、法律が禁止していないこと、つまり「いけなくはないこと」になる。 そして人々の総意がいう。「殺さないと殺されるから殺したんだ、私は悪くない。<これはいけないことではない>」人々がそれを認めたとき、正当防衛による殺人は、いけないことではなくなる。これも、人々の価値基準の総意だ。 よって、人を殺してはけないという価値基準は、時折「人を殺してもいい」という価値基準にすり替わる。 そうして個人の価値基準は、その中に人を殺してもいいという価値基準を同居させている。 私はどうだろうか。殺さないと殺されると判断したら、自分を殺そうとするものを殺すだろうか。殺してはいけない、という自己規定があっても、判断がそれを命じたら、私は、たぶん殺すだろう。そして深く葛藤するのだ。そうして、いつか納得できる理由をひねりだすだろう。 では人を殺したくなったとしたら、どうだろうか。たぶんしないと信じたいが、それは、私という人間を成り立たせる(判断の固まりという)自我によって禁止されているから、という、薄弱な根拠によて保証されるだけである。人を殺したくなったとき、私にそれを禁じる理由は、か細い自主規制だけだ。 では他人にその自主規制があり、それが有効であることを、私は、私たちは信じられるのだろうか。 無論、信じて信仰しちまわない限り、それは、信じられなどしないのだ。他者は、人を殺すことが「ある」のだから。きっと彼らの価値観の中では、人を殺すことは「いけなくもない」ことが生じるのだろう。なにしろかくいうこの私にすら、あるいは生じ得るかもしれないのだから。 そうやって、個人は、私は、人を殺してはいけないことを、他人に、そして自分にすら、正義として提示することが不可能になってしまう。だがそれでは、人を殺してはいけないことを、私は何によって主張し得るだろうか。人を殺してはいけないと、私は主張したいのだが。私の価値基準がそう命じており、他者もそれに準じてくれると嬉しいからである。 私はそれを、他者にも主張し得るだろうか。そして他者もそう思っていることと信じられることを、私は私に保証し得るだろうか。 この時、人を殺してはいけない理由を「それは好ましくないことだから」から「罰せられるから」にすり替えてしまうと、外部の理由を持ち出して主張することが可能になる。すり替えを行わないのなら、私自身を含め、他者にそれを期待する理由は儚くて、ましてや禁止する理由など、私には到底主張し得ない。おそらく誰も、個人が他者を規制することはできない。合意という信仰がない限り。そして合意は・・・ないかもしれない。 そこで、みんなの合意、という明文化された信仰、法が、「人を殺してはいけない」と他者と自分が合意していることを(信仰の上で)証明し、私を安心させ、他者にも禁止を主張する 、たった一つの根拠となり得る。この他に、人を殺してはいけないことを他者に認めさせる根拠は(その人自身の、外部からは判断し得ない価値判断を除いては)、主張できない。世界のすべての他者を、説得によって同意させない限り。(いや、そうしたければしてもいいけど) そう、私は、人を殺してはいけないことを、彼に、他者に同意して欲しいのだ。他者にも、私と同じ価値観を持って欲しいし(その方が楽だからだ)、同意してもらえなければ、私は、殺されるかもしれないのだから。 その根拠として、私は法を挙げる。 法以外には、挙げられない。私の価値観を、絶対のものとすることはできないし、他者が私と同じ価値観を持っているなどとは、努々(ゆめゆめ)信用できない。 「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」 と彼は問い、わたしはこう書いた。 「法がそれを(多くの場合)禁止しているからだ。この法に同意するなら、君は人を殺してはいけない」 なんと儚い禁止だろうか。 法に同意しないと言うなら、私が彼に、人を殺してはいけないと言い得る理由はないのだ。彼自身の自我が、価値判断が、それを「いけない」と自主規制しない限りは。 もし、この問いを発した高校生が、私は法は守らないし、人を殺してはいけない理由を、私の中に見つけられない、というならば、 「それは残念」という他はない。 空想になるが、そうして彼がもし殺意に狂って私を殺そうとしたならば、私は最初逃げ回り、結局その彼を殺すかも知れない。 そして言ってみよう。 「どうだ、イヤなことだろう」と。 (力及ばず殺されたりして) 人殺しの禁止には、みんなの期待という正義が一見ありそうで、しかして人殺しにも、みんなの期待という正義がある。国を守るためになら、許されてしまうのだしね。 どちらも、人間が頭の中で決めることである。どちらが正しいのか、両方正しいのか、両方間違っているのか、それとも使い分けるのが正しいのかは、個人の価値観と、それが総意足り得るかにかかっている。時として、人殺しは悪いことではない。法が、それを禁止していない限りは。 結局のところそれは個人の希望(あるいは理想)であって、同意のない限り、法以外の手段によって規制され得るものではない。 生き物が殺すのは、自然なことでさえあるのだ。 高校生に聞いてみようか。 個人の自由として、あなたは、人を殺しますか? 願わくば、「イヤですよ」と言って欲しいものではある。 2001/02/09 改訂増補(2019/04/11数箇所の表現を修正) |
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