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屁理屈 Kaikou.

周囲の関係




  人間の精神は、周囲の人間の定義によって時に安定を欠く。

  人にはそれぞれ「こうあるべき人間関係」という定義があり、人それぞれだが心に思い描く人間像がある。人間はこのように他者に対すべき、という認識である。

  多くは自分の(理想とする)対人態度が基底となっており、それと同じように他者は自分に対するべきである、と各人がおのおのにそう思っている。

  しかしながら当然他者がみなそのような対人態度を持つわけではなく、他者の態度は様々である。例えば他人の話をさも不愉快そうにしか聞けない御人や、ずけずけした物言いしかできない人物は、礼儀を重んじる人間関係をあり得べき人間の関係と捉えている個人の人間像からは外れる。

  この種の個人の抱く世界像と現実にその個人が接する世界との差異はなにも人間関係に限ったことではないが、こうした人物像と現実にその個人の接する人物との態度の差異は、それをどのように認識するかによって時に人間の精神を不安定にする。

  個人の抱く世界像と、現実に認識される世界とのズレは、個人の精神に不満と、不安とを生じせしめるからである。

  この不満と不安との発生は、個人の抱く世界像(この場合は人間関係像)が完全に近いほど現実世界と一致するものでない限り、必ず発生する。そして、現実の世界に固定された一定の姿がない以上、それは決して一致することはない。(ついでにいえば人間が正しく世界を把握することは認識機構の都合上不可能なので、その意味においても人間の世界像が世界と一致することはない)

  人間関係にも同じことが言える。ある個人が一定の対人像を持っていたとして(持っていないとそもそも人間関係を結べないので、必ず持ってはいるのだが)、それは多くの場合現実の人物と一致せず、完全に一致することはない。(まったく一致することがない訳ではないが)

  それは受け入れるべき現実だが、しかしこの個人の抱く人物像と現実の周囲の人物とのズレが極度に大きく、またそれを個人が「自分の周囲」と認識していることは、個人の精神に大きな不安定をもたらす。

  個人が、現実を受け入れ難くなるのである。この時、人間の精神は安定することができなくなる。例えば始終腹を立て、いらいらし、なにをしていても終始不安であるような、あまりよろしくない精神状態を発生させる。まさに、二十一世紀の現代人の多くがそうであるように。

  このことは、人間の精神が周囲との関係(の定義)によって安定したり不安定になったりする、つまり関係性の定義の産物であることを示すよい例だが、しかしなるほどとばかりもいっていられない。放っておけば、人間の精神に深刻な危機をもたらすこともあるからである。人間の精神はこの種の葛藤を繰り返すことで世界順応のパターンを獲得し、生きる術を会得するとはいうものの、つぶれてしまっては元も子もない。

  人間は二種類の方法論によってこの不安定状態から脱する。

  一つは、その不安定に陥った個人が抱く「人間関係像」を訂正することである。現に周囲にある人物とその態度とを、標準的な、そうあるべき人物像として受け入れ、自分の人間関係像を構築し直すことだ。

  この方法にはある程度の適用限界がある。なぜなら、ある個人が持つ「人間関係像」は、そのままその個人の「あるべき自分像」と重なっており、これを修正することはすなわち自分を作り直すことになってしまうからである。個人は、そのいままでに構築した自分像によってその個人であるのであり、個人が自分自身であるためには、自分像を修正することはできないのだ。

  そして個人が構築する自分像は、長い経験の果てにようやっと獲得した「世界と対峙していくための武器」であり、それによって初めて自分を自分たらしめる個人の中核である。これを変えることは容易ではない。これを変えることは、いったん自分自身を(一部であれ)否定することによってしか成しえないが、自分自身の否定は、下手に行えばそれまでに営々と築き上げてきた世界との関係を破壊することに他ならなくなり、再度の構築に無理があれば、ますます精神を不安定に、一歩間違えば破綻にすら追い込みかねない。さらには、個人の築き上げる自分像は多くの場合その根底の部分を個人の身体的性質、産まれながらの特性に負っているのであり、変えようといったって変えようのない部分もある。そういった生来の性質に基づく判断の癖や価値観は、幼い頃に感得した価値観の体系同様、意識的な反省や意志によって変えられるようなものではない。つまりこの第一の方法は、なかなかできるものではないわけである。できるにしても、その変更には非常に長い時間と、多くを経験することによる長い試行錯誤が必要になるだろう。しかしながら、なかなか困難とはいえこれは本来、人間の精神が鍛えられ成長してゆくところの「世界再構築」の過程そのものであり、そうすることがもっとも自然な、基底的な方法である。

  この方法は基底的なだけに最も有効な方法であり、環境変化にも対応していける有力な手段だが、長い時間と困難を伴う。とにかく毎日ムカついてしようがねぇ、といった場合には、当座の問題をすぐに解決する手段にはならないだろう。

  そこで、そのような関係に身を置く以外に方法がないような過酷な条件下にはない、現代人の大半がそうであるところの裕福で優雅な社会状態の元では、もう一つのやや困難でない、しかし精神が成長することも少ない方法論が有効に機能する。

  それは個人の人間関係像と現実の周囲の人物の対人態度がひどく一致を見なかった場合に、それを「自分の周囲」とみなすことによって発生するどうしようもない不安定を解決する方法論である。そうした、自分の対人関係像と極端に合わない、許容範囲を超える周囲の人物像を、「周囲の人物」と見なさないことによって精神の安定を図る、いわばずっこい方法論だ。。

  自分の人間関係像と極端に合わない人物を、自分の「身の回りの人物」とみなすことは、そうした人物との関係が、その個人を取り巻く唯一の現実的な人間関係であるかのような錯覚を起こさせることがある。実際には、それはもちろん唯一の関係ではないし、そのことを理解してはいるのだが、その関係ばかりが自分の主な人間関係であるように受け止めてしまうと、それはまるで、その自分の人間関係像と極度に一致しない人間関係こそが自分の唯一の人間関係であるかのように、重く受け止めて精神が「囲い込まれる」ことが往々にしてある。そればかりが意識の中でクローズアップされて、現実以上に現実を(悪い意味で)過大評価し、ひどく苛つき、怒ることになる。

  それならば、そうした自分の人間関係像と大きくかけ離れて一致しない人物との関係が、(自分の周囲であっても)自分の日常的周囲なのだと、思わなければよい。

  自分の周囲の人物を、そうした自分の人間関係像と極端に一致しない態度をとる人物と定義することによって引き起こされる日常的不安は、それを周囲の人物と定義しないことによって回避可能になる。

  そうした関係を、自分の周囲の関係、と定義しないのである。

  簡単にいえば「カンケエネー」の論理だ。まさに、現代の若い人間達が、そうならずにはいられなかったように。

  自分の周囲の人物との関係を、それが著しく自分の人間関係像と一致しなかった場合に、周囲の人物との関係としてではなく、「周囲ではない」関係と定義してしまうことによって、強迫観念めいた不安定を回避してしまうのだ。「自分の周囲」を、現実の周囲から少しずらすのである。

  元来、「人間関係像」というのは個人の中に勝手に想定されたものであるし、なにを人間関係と定義するかも個人の勝手にすぎないのだから、どのような関係を「自分の周囲の関係」と定義しようとかまわない。   個人の抱く人間関係像と極端に一致しない人間関係を「自分の周囲」と定義しないことで、このことから生じる不安定は回避される。

  その場合、「自分の周囲」は、現実の日常的周囲とは少し違うところに設定される。毎日顔を合わせるわけではない人間関係とか、心の許せる仲間などとの関係を自分の周囲として定義し、それ以外のものを自分の周囲ではないものと定義する(感じ取る)ことで、いわば都合良く目をそらして解決を図るわけだ。不安定をもたらす現実の周囲との関係は遠景に遠のき、あまりよく知らない人々と変わりなくなる(遠のくだけだが)。このとき、個人は自分の世界像の破綻の危機から脱することができる。

  この少々後ろ向きな手段は、しかし結構普遍的な方法論であって、かつての階級社会の中で当然のように行われていたものだし、(私は階級社会をさほど強く否定しようとは思わないので、こんなことを平気でいう)世間的にいうところの「うまく立ち回る」方法論に近い感覚に位置する。自分の気づいてきた世界像の破壊と変更を強く要請する状況下にない場合には、これはお手軽で有効な方法論になり得る。そんなわけで、自由で安全な現代社会は「カンケエネー」の花が咲くわけである(悪いといっているのではない)。

  だがこれは単に「現実を無視すること」に他ならないので、個人はこのような手段を執って精神の不安定を回避する場合、早々にその関係を離れ、自分の持つ人間関係像と大きくかけ離れないような人間関係のもてる自分の位置を探すべきなのだろうが、世界が個人の容易に知り得る、そして予想できるものでは無い以上、これは自分自身の人間関係像を書き換える以上に困難なことなのかも知れない。ここに挙げた二つの方法論は、古来試し尽くされた方法論なのだろうが、すくなくとも決定打ではない。(解脱する、というテもあるが、この方法はもっとも困難だろうし、第一人間にできるものなのかどうか自信がもてないのでここでは触れない)

  自分の抱く「人間関係像」と現実の人間関係とのギャップに基づく、人間精神の不安定の構図は、いいかえれば世界と自分との関係性の定義の問題であり、結局のところ、人間の幸福と不幸とは、その関係性の定義を、いわばウマクやる、あるいはやらないことによって生じる程度のものなのだ。その有効な対処法の発見は、即人類の幸福感の獲得に繋がってしまうだろう。そんな方法論の発見がもしあれば、それはもうノーベル賞級の発見といってよいのではないか。誰一人成功していないのだから。   理想をいえば、個人が、自分の育ててきた人間関係像と近しく一致する人間関係が、実際にその個人の周囲で生じ、それを「自分の周囲」と認識して安定した関係を持ち続けることができれば、個人は幸福なのであろうが、このような幸福な関係は、偶然によって生じる以上の確率ではまず生じないだろう。もし、そのような周囲を、現実に自分の周囲として持っている人間がいるとしたなら、その個人はたしかに幸福であり、たいへんうらやましい。



↑ごちゃごちゃとエラソウに書いているが、要するにあんまりムカつかない方が楽よ、という話である。

2001/03/13




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