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目次
西洋と日本の美容文化史
理美容師免許は国家資格です〜諸外国の資格はどうなっているの〜
西洋における理容師のはじまり〜ルーツはエジプト時代〜
ヨーロッパ文明は、ナイル川流域のエジプト文明と、チグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア文明から始まりましたが、エジプトがナイル川流域に建国された頃(紀元前4000〜300年)には、鋭く砥いだ燧石やかき殻などでヘアカットやシェービングといった理容の仕事が行われていました。当時は、「善と悪の精は頭髪を伝わって出入りする」という迷信があったため、ヘアカットは悪の精を追い出す意味合いが強かったようです。したがって、理容の仕事は宗教的儀式のもとに行われ、理容師の仕事は僧侶と薬学者が兼ねていたといわれています。ローマ時代(紀元前500年〜西暦500年)になって、ローマの勇者パブリアス、デイニロス、メナスの3人がギリシアを征服した外征の帰路、地中海の中にあるシシリー島に立ち寄ってみると、そこにはエジプトから移住した理容師がいました。そこで、戦いにまみれた顔を剃らせたところ、実に気分が良かったため、その理容師をローマに連れて帰り、バーバーをやらせた……これがヨーロッパでの理容業のはじまりといわれています。紀元前296年のことです。やがて、ローマ帝国は最盛期を迎えますが、各地に生まれたブルジョアの高級なお抱え理容師を「トンソーネ(tonsone)」、街中の一般の理容師を「トンソール(tonsor)」と呼んだそうです。ちなみに、理容を意味する英語の「バーバー(barber)」、ドイツ語の「バルビール(barbier)」は、ラテン語「バーバーbarba」からきた言葉であるといわれています。


日本の理容は文明開化とともに〜近代化の象徴だったザンギリ頭〜

現在の日本で行われている理容技術は、明治維新の頃に西洋の文化として輸入されたもので、それ以前の髪結職とは一線を画す「近代理容業」と称されています。ところで、明治新政府は約300年続いた封建制度を払拭し、日本のおくれを取り戻すため、日本古来の風俗や制度を西洋化する政策を推し進め、その一環として明治4年8月9日、次のような太政官布を発布しました。

散髪制服略服脱刀共可為勝手事
但 禮服ノ節ハ帯刀可致事


これが、一般に「断髪令」といわれるものですが、実際には強制ではなく「散髪の許可」となっているところが大変興味深いところです。また、この断髪令が布告される3ヵ月前に、

半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする


という俗謡が新聞に掲載され、流行しました。これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのです。

ちなみに、神奈川県横浜市にある山下公園に、この地から西洋理容が輸入されたことを記念したモニュメント「西洋理容発祥の地」記念碑(写真)がありますので、お近くに行かれた際にはぜひお立ちより下さい。(場所は山下公園内・大桟橋側です)




床屋の発祥地は…〜そして床屋という名称の由来〜
髪結職の業祖に関しては「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられています。それによると、『亀山天皇の頃(1259〜74)、京都北面の武士の藤原晴基は、御預かりの九龍丸の宝剱の紛失の責任から浪人し、子息の采女亮(うねめのすけ)とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関へ下り、往来の武士を客として月代そり髪結業を営み探索を続けた。晴基は弘安一年(1278)没し、采女亮は3年後この地を去った。〜中略〜十七代目の藤七郎は元亀三年(1572)、武田信玄に敗退中の徳川家康の天竜川渡河の案内をし、その功績で笄(こうがい・髷に横にさすかざり)と銀銭一銭を賜り、以後一銭職と称えるようになった。〜後略〜』と伝えられています。つまり、采女亮が下関で髪結いの仕事をはじめたのが床屋の始まりとされているのです。なお、采女亮が開いた店には床の間が設えられ、そこには亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、人々は「床の間のある店」→「床場」→「床屋」と呼ぶようになったと言われています。采女亮は建武二年(1335)七月十七日に没しましたが、昭和初期の頃まで、全国の理容・美容業者は敬髪と始祖の冥福を祈るため、毎月十七日を定休日としていました。なお、十七日定休日にはもう一つの説があります。それは、天竜川渡河の案内をした徳川家康、後に江戸幕府を開いた征夷大将軍ですが、その家康の命日が十七日(元和二年四月十七日没)であったことに由来するというものです。いずれにせよ、十七日は髪結職にとっては特別で重要な日であったことだけは間違いなかったのです。
なお、山口県下関市の亀山八幡宮には、この地が床屋誕生の地であることを記念した「床屋発祥の地」記念碑がありますので、興味のおありの方はぜひ訪ねてみて下さい。
(住所:下関市中之町1−1)



近代理容業のあけぼの〜西洋理髪技術は最新技術として輸入〜

その1=横浜からスタートした理容店〜誰が伝えたの〜

安政5年(1858年)、日本はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結しました。その後、各国との間で通商条約を結び、函館、横浜、長崎が開港されましたが、特に横浜は江戸に近い良港であったため急速に発展しました。 従って、当時の先端風俗、異国風俗は、横浜から起こったものが多く、そして、「文明開化はまず散髪から」という断髪風俗、それに伴う理容店(当時は理髪店といった)もまず横浜に起こりました。 後に、日本における西洋理髪の祖とされる小倉虎吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉らは、1丁の剃刀を携えて横浜港に入港した外国船に出入りして、月代(さかやき)で鍛えた剃刀の腕前をもって乗員の髭を剃っていましたが、日本でも散髪が流行する時勢が近づいていることに気がついて、しきりに外国船に乗込んでは西洋理髪師の手技を見習って技術を習得しました。西洋床のはじまりとしては、小倉虎吉が、明治2年に横浜居留地の中国人アコン宅の階下に開店したのがその代表といわれています。 当時の時事新報(明治31年8月7日付け)にも「小倉虎吉率先して明治1、2年の頃、今の148番館即ち俚俗支那屋敷に散髪床を開き、神奈川県庁に出願して理髪営業鑑札48枚を受け、原、松本、竹原等と腕を揃えて専ら西洋流の散髪を始めたり。これを横浜における日本人散髪業者の元祖なり」と記されています。このうちの1人、松本定吉のお墓は、現在、横浜市中区の日蓮宗妙香寺にあり、「元祖西洋理髪師松本定吉之墓」と記されています。残念ながら、小倉虎吉のその後は消息がハッキリしていません。なお、居留地148番地・俚俗支那屋敷は、現在、横浜中華街にある「同發」のあたりの場所といわれています。

その2=出雲の西洋理髪ことはじめ〜日本におけるベンチャービジネスの先駆け〜

断髪令が発布された2年後の明治6年、島根県松江市で、元藩士の瀧野多三郎、半田紋之助によって散髪処が開業されました。2人は、明治3年、松江藩お雇いのフランス人教師・アレクサンドルとヴァレットが砲術や軍事指導のため来日した際に、フランス式斬髪技術を習得したのでした。この史実は、島根大学山陰地域研究総合センターが発表した「瀧野多三郎−松江の散(斬)髪と西洋洗濯の創業者」(1987)に記されていますが、その根拠となる資料は松江市の理容店から発見されました。その資料は「松江の斬髪について」という回顧録で、明治6年からの松江市での理髪店の歴史が記されていました。その回顧録では、「髪型は五分刈、撫附刈、分刈の3種類であった。明治15、6年頃から長摘が流行した」と当時流行した髪型も伝えられています。五分刈はスポーツ刈り、撫附刈はオールバック、分刈は七三、六四などの分髪のヘアスタイルであるとみられています。なお、瀧田多三郎は、数年後に散髪処を閉じた後、研究発表のテーマにもありますように、明治10年代後半には「西洋洗濯業」、つまりクリーニング業に転じたといいます。瀧野は、西洋理髪のみならず、クリーニングの世界でも草分けとなったのでした。


外科医として活躍の後、芸術の分野へ〜マルチプレイヤーの理容師〜

理容師は、その後も僧侶とともに外科医として発達していきました。やがて、1096年にはフランスで最古の理容組合の誕生をみます。また、1162年には「僧侶は外科手術をすべからず」というおふれが出され、理容師は理容外科医として治療を行うようになりました。(その模様は、次の項の「理容店の看板〜赤・白・青〜の謎」をご覧ください)ところが、1416年に至って、理容外科医の中で、外科、歯科に関して未熟な者がいるということから、「重症患者取扱禁止令」が出され、その後、理容外科医と医師の間で、長期にわたって取権闘争が繰り広げられました。ところが、それまでは理容師が外科医を兼ねていたところに、今度は医師の中から理容師になる人が現れました。その人は、パリの医師、メヤーナキールで、1540年に理容師としてデビューしました。その上、彼の門下生である医師が続々と参入して、理容外科医はここに全盛期を迎えるに至ったのです。なお、メヤーナキールは、現在でも近代理容業の祖といわれています。ところが、1700年代に入り、まずフランスで長い取権闘争の結果、1731年に外科医院が誕生して、理容と外科医の完全分離がはじまりました。1745年にはイギリスでも、薬学、外科、歯科などの学理が進歩して、外科医団体のつきあげもあって、とうとうジョージ2世の「理容と外科を分離させる法令」が出され、完全分離することになりました。そのような事情から理容師は、以後、カットやシェービング、ウイッグ(かつら)などの理容技術をもって人間を美しく際だたせるという、芸術的感覚を働かせた活動へと推移していきました。


理容店の看板〜赤・白・青の謎〜

理容店の看板の「赤・白・青」のあの3色は、かつて理容師が外科医を兼ねていたことに起因しています。中世のヨーロッパでは、理容師の仕事は髪をカットしたり髭をシェービングすることにとどまらず、歯の治療や傷の手当てまでを行う「理容外科医」という職業でした。7、8世紀頃には既に職業化していたそうですが、理容の歴史は、後に医学が発達するようになり、外科が医学の分野として記録されるようになった12、3世紀頃から外科医史に登場します。その当時のポピュラーな治療法のひとつに、『瀉血(しゃけつ)』がありました。その様子は、14世紀に出版された「ラトレルの聖詩篇」に描かれていますが、これは「身体の悪い部分には悪い血が集まる」という考えから、その部分の血を抜き取るという治療法でした。治療に際しては、患部を切開して血を抜き取る際に、患者に棒を握らせ、腕を固定し、そこを伝って受皿に落ちていくようにしていましたが、術後に血のついた棒をそのままにしておくのは衛生上好ましくないとのことから、その棒を赤く塗って使用するようになりました。その棒は、barber-surgeon's pole(理容外科医の棒)と呼ばれ、後にbarber's poleつまり理容店の棒と呼称されるようになったといわれています。治療が終わった後、洗浄したその棒と傷口に巻いた包帯を店の軒先に干していたところ、風に吹かれてその包帯が瀉血棒に螺旋状に巻き付き、バーバーポールが転じて理容店の看板・サインポールの原形になったと言われています。後に、1745年にイギリスで、理容師のユニオン(組合)と外科医のユニオンが分裂した際に、外科医は赤白に、理容師は青を加えることが定められたため、理容店の看板が今日の赤・白・青の3色になったといわれています。この他にも、ナポレオンが最終的敗北を被ったワーテルローの戦い(1815)の際、野戦病院の入口にフランス国旗を旗棒に巻き付けておいたものが、そのはじまりとする説もありますが、年代的にみて「瀉血棒説」の方が確実で信憑性の高いものであるようです。


理容店の看板〜日本はどうなっているの〜
西洋理髪は、明治維新の際に、他の西洋文明とともに輸入されましたが、そのルーツ「理髪外科医」からのなごりで、理容店の看板・サインポールの色は、日本においては、赤は「動脈」、白は「包帯」、青は「静脈」とも言われています。(この説の方が一般的に通用していますが…) ただ、呼称の部分においては「バーバーポール」や「サインポール」という名称は当初使われず、形状から捉えられた呼称が使われていました。 「武江年表」の明治4年4月の項に「この頃、常盤橋御門外髪結床に西洋風髪剪所(かみはさみところ)の招牌(かんばん)を出す。太き棒の頭に宝珠の形を彫り、右の棹へは朱白藍色の左巻という塗分けにして立てる」と記されています。 また、明治5年の名古屋新聞によると、すでに「東京府下、髪結店凡三千餘軒あり、近来紙格に英佛髪サシ所と題し、店前に赤と青の捩れたる棒、高さ五尺許、項に金の玉を付したる看板を建たり」との記述もあります。 これらの看板は、どちらも赤と青、そして白の色使いで螺旋状に捩じれているものとなっていますが、「アルヘイ棒」と呼ばれていました。 明治6年の「江湖機関西洋鑑(うきよからくりせいようめがね)」に、『散髪床・有平の看板』とあります。有平(アルヘイ)の語源は、安土桃山時代にポルトガルから伝来した砂糖菓子alfeioaに由来しています。そのひねりを加えた形によく似ていたことから、アルヘイ棒と呼ばれました。 後に、アルヘイ棒は、その名前が転じて「あめん棒」とも呼ばれていたそうです


ヨーロッパの理容店看板〜理容外科医にまつわる品からスタート〜
ヨーロッパの理容店の看板が、「赤・白・青」のサインポールに落ち着くまでには、大きく2種類に分類される流れがありました。一つは真鍮や銅製の皿、もう一つがサインポールでした。いずれも中世の理容外科医ゆかりの品のため、目印として使用されてきたのでした。現在でも、フランスなどでは「皿」の看板を出す店が多く、またイギリスではもとはサインポールに皿やコップ、壷などをぶら下げていましたが、その後ポールだけが残ったといわれています。「皿」は瀉血の受け皿、「コップ」は抜歯、「壷」は18世紀以降にヨーロッパで瀉血の代わりにヒルに血を吸わせるという方法が大流行した時に、ヒルを入れていた壷を意味しています。その後、看板として完成されたサインポールの頭についている「玉」は、かつて看板に使われていたこれら皿やコップ、壷などが変化して「玉」の形になったとされています。(サインポールの色については、近代理容業篇の「1.理容店の看板〜赤・白・青〜の謎」の項をご覧ください)なお、中世の末期頃には、外科は、外科医、理容外科医、湯屋外科医の大きく3種類に大別されていました。下記のようにそれぞれが、自分たちの看板をもってお互いを区別していたようですので、参考までにご紹介します。

外 科 医 → 青白の棒に小さな赤旗と薬壷
理容外科医 → 青白の棒のみ湯屋
外科医 → 盤とタオル

(ただし、他説には棒の色が「赤・白」であったという記述や、「赤・青・白」であったという記述もあります)


原始時代にはじまったヘアカラー〜宗教的儀式がルーツ〜
世界的に流行しているヘアカラー。いまやカラーなしにはヘアスタイルを語ることが難しい時代になった、といっても過言ではないでしょう。それでは、ヘアカラーはいつ、どのようにして生まれたのでしょうか。 その歴史をひも解いてみると、原始時代にはすでに宗教的な儀式の際に髪を装飾する行為としてヘアカラーがかつらとともに用いられていました。つまりヘアカラーのはじまりは、宗教的・呪術的な意味合いを持っていたのです。 古代エジプトでは「ヘナ」や「インディゴ」を用いて赤や青、緑など社会的地位を表すためにヘアカラーが行われていました。現在も使われているヘナは、5000年以上前からヒンドゥー教のボディペインティングに使われていたということですし、かのクレオパトラが髪や爪を染め、唇に色をつけていたという話しも有名です。 ギリシャ時代には、金髪が知と力を象徴するものとしてヘアカラーが行われていました。フェニキア産のアルカリ石けんで脱色したり、サフランで着色した小麦粉を振りかけて金髪を装っていたそうです。ローマでは黒系の髪が好まれ、クルミのカラとニラを煮詰めたもので染めて、やはり社会的地位を表していました。 このように、この時期までのヘアカラーは宗教的な意味合い、地位や権力を表すものとして、主に男性が行っていたものでした。ところが、ルネサンス期以後は女性中心の時代へと変わり、ベネチアン・ブロンドやブルネットなどの流行色も生み出しました。現在のように安全な方法がない当時では、ベネチアン・ブロンドにするためには頭の部分をくりぬいた幅広帽子をかぶり、一日中髪を日にさらして我慢しなければならず、またブルネットにするために硫酸銀と蒸留水を混ぜた薬剤を使用するため、ひじょうに危険なものであったといいます。 今日よく用いられ、市場に数多く出ているヘアカラー(酸化染料)は、1863年、ドイツ人のホフマンがパラ‐フェニレンジアミンという酸化染料を発見したのに続き、1833年にフランスのモネがこれをヘアカラーに用いる特許を取得して商品化したのがはじまりです。比較的新しいヘアマニュキアはアメリカで開発されたもので、染料にはタール系色素を使用しています。これは、パーマネント(永久的)ヘアカラー剤のジアミン系染料と違い、毛髪表面から一部内部に浸透させ染色するもので、セミパーマネント(半永久的)ヘアカラー剤に分類されます。 ヘアカラーにはこのほか、毛髪表面に色素を付着させるスプレー式やスティック式の毛髪着色料があり、テンポラリー(一時的)ヘアカラーと呼ばれています。また、黒髪の色素(メラニン)を脱色するブリーチやヘアカラーの染料の色素を落とす脱染剤などがあります。


日本のヘアカラーは「おはぐろ」から〜できあがるまで10時間のガマン〜
「街中でヘアカラーを施していない人を探す方が難しい」といわれるほど、ヘアカラーリングがカットやパーマのようにヘアスタイルを決める上で重要な位置を占めるようになってきました。 テレビや雑誌などを見てもヘアカラーの広告がよく目につくようになり、また、これまでタブーとされてきたビジネスマンの間でも認知されるなど、もはやヘアカラーは一時的な流行現象ではなく、ファッションの中で欠くことのできないものになっています。 世界レベルでいえば、そのルーツは原始時代にまでさかのぼります。(外国編4をご覧ください)。それでは、日本の場合はどうだったのでしょう。 日本では、寿永2年(1183)に北陸の武将・齊藤実盛が篠原の戦いで最期を遂げた時、白髪を墨で黒々と染め上げていたことが「源平盛衰記」や「平家物語」に記されており、これが最も古いヘアカラーの記録とされています。 このように、日本のヘアカラーには820年の歴史がありますが、その後、明治の中ごろまでは、タンニン酸と鉄分を用いた「おはぐろ式」の白髪染めが行われていました。このおはぐろ式では染め上がるまで10時間程度かかっていたそうです。 20世紀に入り、外国から酸化染料式ヘアカラーが輸入され、明治40年(1907)に酸化染料によるヘアカラーが商品化・発売されました。これにより、染毛時間が2〜3時間程度に短縮されることになり、好評を博したそうです。また、当時は、歯ブラシ型の刷毛で染毛剤を髪に塗りつけ空気で酸化させる方法がとられていましたが、大正5年(1916)には現在も酸化剤として一般的に使われている過酸化水素水を酸化剤として用いたヘアカラーが開発・発売されて、染毛時間が20〜30分に大幅に短縮されました。 昭和30年代には、黒、褐色、栗色など色のバリエーションが増えはじめ、白髪染めの髪色を「黒くする・暗くする」ヘアカラーから、おしゃれ染めといわれる髪色を「明るくする・軽くする」ヘアカラーへと変わり、現在では出せない色はないといわれるほどのカラーバリエーションとなっています。


日本で一番はじめに散髪した人〜自分の意志が先か現実が先か〜
日本人で一番はじめに散髪したのは誰だったのでしょうか。
文久2年(1862)9月、江戸幕府の命を受けて榎本武揚、西周、津田真道などがオランダに留学しましたが、その際、幕府から決して風俗を変えてはならないと命ぜられていました。また、彼らもいつ呼び戻されるかわからないので、髷を帽子で隠して過ごしていましたが、観劇に行った際に周りの見物人が脱帽だったので、彼らも思わず脱帽すると、見物人一同が髷を見てドッと騒ぎ出したので、いたたまれなくなってその場を去ってしまったといいます。それが原因かどうか、ともかく彼らが元治元年(1864)に帰国した際には揃って断髪姿だったそうです。
 ところが、断髪をはじめて行ったのは、大黒幸太夫と中浜万次郎だといわれています。大黒幸太夫は伊勢の国の漁師で、出漁中に台風で遭難しロシアまで漂流したのですが、ところが密入国の罪に問われ、いわゆる囚人刈りにされてしまいました。なお、彼は寛永年間(1789〜1800)に帰国しています。中浜万次郎(ジョン万次郎)は土佐の国の漁師で、15歳の時、出漁中に漂流しアメリカ捕鯨船に救助され、その後、アメリカで教育を受け、また、カリフォルニアのゴールドラッシュの際には採金夫になったりもしましたが、ペリー来航の前年の寛永5年(1852)、26歳で帰国しました。その際、彼はアメリカで断髪していました。もっとも、大黒幸太夫と中浜万次郎の2件は、自分の意志で断髪したのではないという点に問題があるといわれています。


「エステ」は理髪師が輸入した技術だった〜米人医師に見込まれ習得〜
今、女性を美しくする職業として脚光を浴びているエステティック。最近はエステサロンにメンズ・コーナーができたというテレビCMも放映されています。 あまりご存じないかもしれませんが、エステティックの中のフェイシャル・マッサージは、実は理容店からスタートしたのです。
 明治28年、日本の西洋理髪師の祖の一人、松本定吉の弟子・芝山兼太郎は、横浜・山下町103番地に「日之出軒」を開業しました。当時の『貿易新聞』に「横浜名物は、伊勢崎町の吉野志る粉に、山下町の日之出軒」と記されたように大変な人気を博していました。2年後、兼太郎は日之出軒・婦人部を設け、山下町31番地、オリエンタル・ホテル前に「パレス・トイレット・サロン」を開業しました。明治38年11月、兼太郎は、アメリカ人医師のドクター・W・キャンブルーとの運命的な出会いをし、マッサージ(血行療法を主とした求心的マッサージ法)の教えを受けました。そのマッサージは「フェイシャル・マッサージ」として営業品目に加えられ、評判を呼びました。後に、このキャンブルー式マッサージは「生理的マッサージで、顔がとてもきれいになる」とのことから『美顔術』とよばれるようになり、全国に広がっていきました。世界的に見ると、エステティック自体は約200年前にすでにその定義がなされていましたが、美容的意識をもちはじめたのは第2次世界大戦以後で、また現在のように定着したのは1970年以降のことでした。
 なお、エステティックは、現在の理容師、美容師になるための養成施設の教科書にカリキュラム化されていますし、理容店でもメニュー化してお客様に喜ばれているところが数多くありますので、1度お試ししてはいかがでしょうか。


西洋と日本の美容文化史
(西洋)
時代
(西洋)
政治・文化
(西洋)
美容文化
(日本)
時代
(日本)
政治・文化
(日本)
美容文化
古 代 エ ジ プ ト 時代 BC3100〜    早期王朝
BC2850〜2750 第1王朝
BC2650〜2200 古王国時代
 サッカラの階段式ピラミッド
 クフ王の墓
 ギゼーの大ピラミッド
BC2050〜1778 中王朝時代
 全エジプトの統一
BC1570〜 715 新王朝時代
BC1301〜1234 ラムセス2世
BC1230      モーゼ・エジプト脱出
BC 715〜332  後期王朝
BC30       クレオパトラ自殺 
           エジプト滅ぶ
かつらの使用


化粧品の発達

目の化粧

香油の使用

オイルマッサージ

原始ー古墳時代 固 有 風 俗 時 代 原始社会・・・狩猟採集






縄文時代・・・民族社会






弥生時代・・・農業小国家






189 卑弥呼・邪馬台国
    女王となる





391 日本軍出兵
    百済・新羅を属国とする


垂髪


美豆良


まげ・・・島田髷


はちまき


水鏡


顔赤め


入れ墨


おはぐろ


かざし
ギ リ シ ャ 時代 BC1800〜 エーゲ海文明
BC900〜  ギリシャ文化の曙光
BC700〜  ギリシャ・アルカイック文化
        イソップ(童話作家)
BC650〜  諸都市の創立(ポリマ)
BC447   パルテノン造営 
       ギリシャ古典文化の黄金時代
      ヘロドトス、ソクラテス
      プラトン、アリストテレス
AD200

自然な健康美
ウェーブの美

ヘアピン、リボン
ヘアネット、冠、
ベールの使用
ヘアカラー
(白、赤、金の髪粉)
香料の多用
ロ ー マ 時代 BC700頃  伝説上ローマ建国
       王政が行なわれる
BC509   ローマ共和政治始まる(伝承)
BC272   ローマ、イタリア半島統一
BC180頃  ヘレニズム文化の流入
BC63    第1回三頭政治
BC27〜AD アウグスツス
        ローマ大土木工事おこす
AD30  キリスト教の成立、キリスト教迫害
117〜38   ハドリアヌス
        ローマ帝国の領土最大
311     キリスト教寛容令 
        (コンスタンチヌス大帝)
395     帝国、完全に東西に分立
人工的、構築美

ヘアアイロン・カール
(ローラー)使用
カラーリング



かつらの使用

香油・香料の使用

公衆浴場↓
マッサージ
中 世 ビ ザ ン チ ン 395   東ローマ帝国コンスタンチノーブル
      を首都とする
530   モザイク工芸全盛
732   ローマ教皇と対立激化
843   コンスタンチノーブル公会議
      (聖体像崇拝の許可)
840代  ビザンチン文化復興
988   ロシア人・ギリシャ正散帰依
1045  コンスタンチノーブル法学校設立
1099  十字軍士、エルサレム王国建設

三ッ編

ヘアネット(宝石付)
トーク帽

人工的化粧
眉、目、口紅

東方文化の
影響を受ける
飛鳥・白鳳・奈良(天平)ー平安時代 韓唐風模倣時代 593 聖徳太子摂政となる
607 第1回遣隋使
645 大化の改新
661 律令国家の開始(天智)
672 壬申の乱
701 大宝律令(文武)
仏教国家の出現
712 古事記
720 日本書紀
752 東大寺大仏開眼
682年(天武)
結髪令
高髷
垂髷
鳥毛立女屏風
紅の使用
白粉の使用
花子
花鈿
おはぐろ
貴族文化社会
794 平安京遷都
805 天台宗(最澄)創む
806 真言宗(空海)創む
850 藤原氏台頭
879 小野小町没
905 古今和歌集
930 摂関政治成熟
1000?枕草子
1012 源氏物語
1053 平等院落成
1066 大鏡・今昔物語
1167 平氏の政権
1185 屋島・壇の浦戦い
    平氏没
1190 西行・山家集
ロ マ ネ ス ク       イングランド・フランス王国・ドイツ
1010頃  ローマ教会は
      「神の平和」「神の休戦」布告
1031〜60 アンリ1世(フランス)存位
1025頃  宮廷騎士の叙事詩
       「ルーオトリーブ」(ドイツ)
1042〜66 エドワード王
      (サクソン・イングランド)
1077  カノッサの屈辱
  (ハインリッヒ破門赦免を教皇に哀訴)
1096〜99 第1回十字軍遠征
1098   シトー教団創設
1147〜49 第2回十字軍遠征
1150頃  アーサー王物語この頃成る
1167   オックスフォード大学の始め
1170   パリ大学起る


ヘアピース


ベール


フード
国 風 発 達 時 代 垂髪・・・大垂髪

鬢そぎ

白元結

目刺姿

ぼかし眉

白粉



十二単衣
ゴ シ ッ ク 1175〜84 カンタベリー寺院再建
        (英、ゴシック初)
     この頃よりゴシックが盛んとなる
1194〜1260 シアトル大寺建築
1199〜1216 ジョン王(イギリス)
1215  マグナカルタ(大憲章)制定
1209〜33 ケンブリッジ大学創立
1241  蒙古・ドイツに侵入(ヨーロッパ)
1250  ヨーマン(自営農)の成立
1280頃 色ガラス・ビンの製造始まる


エナン


トーク帽、ウィンブル
鎌倉時代 武家政治
1192 頼朝征夷大将軍
     鎌倉幕府
1205 新古今和歌集
1212 方丈記
1219 頼朝暗殺される
1243 平家物語
1274 元冠の役

垂髪


玉結び


桂包
ル ネ ッ サ ン ス 1250頃 ローマ教皇庁世俗化
      (諸邦の紛争で)拡大
1250頃 ヴェネチアの隆盛
1250頃 ヴェネチアでガラス鏡発明
1271   マルコポーロ東方に出発
      イタリア人文主義
      ダンテ 1265〜1321
      ペトラルカ 1304〜1374
      ボッカチオ 1313〜1375、
      ジォットー 1266〜1337
1338〜1458 英仏百年戦争
1347〜51 全ヨーロッパペスト大流行
1350頃  シュワルツ、火薬発明
1400   チョーサー死亡
       (カンタベリー物語)
1400   フィレンツェのルネッサンス
1402   パリに常設劇場生れる
1429   ジャンヌ・ダルク出現
1434〜94 フィレンツェ、メディテ家就政
1450代  ルネッサンス全盛期
1470代  ヴェネチア衰退
       ダ・ヴィンチ 1452〜1519
       ポティチェリ 1440〜1510
1485〜1509 ヘンリー7世(英)
         専制君主在確立
1500代(伊)ヘレニズム遺品発掘
1500代(伊)アルプス以北の人文主義起る
      アメリカ大陸の発見
   タバコ、ジャガイモ ヨーロッパに伝う


ブロケード



自然なウェーブ



ベール



帽子の使用



香水の多用



つけボクロ



自然と調和の美
南北朝時代 1338 足利尊氏征夷大将軍
1354 近江土一揆

1394 室町政権確立(義満)
1397 金閣寺建立
1434 勘合貿易始まる・明
1467 応仁の乱

諸国で下克上起る
1489 銀閣寺建立(義政)
1543 鉄砲伝来・ポルトガル
1549 キリスト教伝来ザビエル
1573 室町幕府滅ぶ
1553〜1564 川中島の戦
1560 桶狭間の戦

この頃ヨーロッパ毛織物輸入
1562 琉球より三味線渡来
1575 大砲伝来
1576 信長安土城に入る
1582 信長没
1583 秀吉関白となる
1588 刀狩り令
1591 千利休自殺
1592 朱印船制度を定む
1593 天草本・イソップ物語
    平家物語開版
1600 9月、関ヶ原の戦

白拍子の出現

作り眉
室町時代
着物の完成


能衣装


茶の湯
安土桃山時代 国 風 全 盛 時 代 南蛮文化

色白粉

唐輪髷

根結い

束髪

玉結び

禿
近 世 バ ロ ッ ク 1620  メイフラワー号アメリカへ
1642〜49 ピューリタン革命
1643〜1715 ルイ14世(仏)統治
1649  イギリス共和制となる
1651  クロムウェル航海条例
1672  ルイ14世ベルサイユに移る
1679  イギリ騎士議会解散
1689  信教自由令権利法典
1689  イギリス・フランス植民地戦争
1694  イングランド銀行設立
アティフェ髪型の流行
かつらの大流行
フォンタンジュ風流行
頬紅使用



調髪師現れる
江 戸 時 代 1603 家康江戸開幕

1614 キリシタン追放

1616 鎖国

1635 参勤交替制の確立

1687 生類憐みの令

弊政と享保の改革

1703 大石他赤穂浪士切腹

1709 生類憐みの令廃止

1723 新田開発推進

1764 平賀源内石綿創製

1765 関東農民
    20万人大一揆

1774 解体新書出版

1776 雨月物語

1778 古事記伝

1778 倹約令

1783〜88 天明の大飢饉

寛政の改革

1790 江戸銭湯混浴禁止

1797 イギリス船室蘭に来航

1798 古事記伝完成

1806 江戸町人に御用金を命ず

1808 間宮林蔵、樺太探検

1810 大阪町人に御用金を命ず

1815 座頭の高利貸しを禁ず

1825 異国船打払令

1828 シーボルト事件

1830 全国的大飢饉続く

1834 水野忠邦老中となる

1837 大塩平八郎の乱

1840 (アヘン戦争)

1841 天保の改革

蝦夷と開国

1853 ペリー(米)浦賀に来航

1855 洋学所設置

1860 桜田門外の変
町人文化の発達

日本髪の完成

島田髷

勝山髷

兵庫髷

元禄髷

紅・口紅・頬紅

歌舞伎文化の影響

日本髪の四要素

前髪・ビン・タボ・髷

髪装飾品の工夫

白粉・・・鉛白

水銀(伊勢白粉)

紅・・・口紅のみ

額の際作り

おはぐろ・眉落し

江戸の水

髪油・伽羅

町人文化の燗熟期

女結髪師の出現

二百種以上の髪型

ビン挿し・タボ挿し

張籠等結

髪小道具広く使われる

身分と結髪の定

着化

粋の文化

かた紅とつや紅の使用

目のふち等ぼかし紅
ロ コ コ 1707  イギリス・スコットランド合併
     大ブリテン王国
1715〜74 ルイ15世
1745〜64 ポンパドール夫人政権干与
1751〜72 フランス百科全書編集
1753  大英博物館設立
1762  ルソー「民約論」
1764  イギリス砂糖条例(アメリカ圧迫)
1767  重農主義(フランス)
1774〜92 ルイ16世
1774  マリーアントワネット王妃となる
1776  アメリカ独立宣言
1785  マリーアントワネット首飾事件
1789  フランス革命起る
1793〜4 ルイ16世・アントワネット処刑
ポンパドールスタイル
高い髪形の流行
髪粉の使用
香粧品が出回る


オーディコロンの
始まり


かつらは必需品となる
近  代 ナ ポ レ オ ン 時代 1796  ナポレオン、イタリア遠征
1799  ナポレオン総統に就任
1801  大ブリテン
     アイルランド連合王国となる
     英・国旗(ユニオンジャック)制定
1804〜14 皇帝ナポレオン1世
1810  ナポレオン、マリー・ルイーズと結婚
1814  スチーブンス「蒸気機関車」試運転
1814  フランス・ブルボン王政となる
     ルイ18世
かつらの廃退

アポロノット

タイタス風ヘア

シミーズ・スタイル

Dr.カロン著
「美の百科全書」
ビーダーマイヤー 1822〜27 イギリス外相カニング、諸国
        自由主義運動を支援
1827  スイス、ペスタロッチ死(1746〜)
1829  イギリス・ロス磁気北極の測定
1830  オーストラリア産業革命に入る
1835  バルザック「谷間の百合」
ショートヘア


帽子の流行
ヴィクトリア時代 1837〜1901 エリザベス女王即位
1838  フランス・タレーラン没
1839  ドイツ少年労働の禁止
1839  イギリス、ペニー郵便制度成立
1845〜47  アイルランド飢饉と全国恐慌
1846〜47  フランス・全国的大不況高騰
1846  自由貿易政策(イギリス)
1848  マルクス「共産党宣言」

ヴィクトリア女王が
中心となる流行

シニョン・スタイル

美容書刊行
第 二 ロ コ コ 時代 1851  ロンドン世界博覧会
1851  ターナー(イギリス)没
1852〜70  皇帝ナポレオン3世
        (フランス第2帝政)
1853  労働保護法(プロシャ)
1854  英仏クリミア戦争に介入
1857  経済恐慌全ヨーロッパで
1857  ボードレール「悪の華」
1859  ダーウィン「種の起源」
1861  ロンドン労働協議会成立
1862  ユゴー「レ・ミゼラブル」(仏)
1863  ロンドンに地下鉄開通
1863  ビスマルク執政(プロシャ)
1864  第1インターナショナル設立
     (ロンドン)
1864  ジュネーブ
     赤十字(国際)結成
1867  パリ・万国博覧会
1867  アメリカ・アラスカを買収
1870  イタリア統一の完成


細長い巻毛を
両サイドに

頭飾品(リボン等)

ミニョンスタイル

ローションの多用

バッスル・スタイル

アールヌーボー 1871 パリ・コミューンの乱
     ドイツ帝国建設
1884  アフリカ分割・ベルリン会議
1884  フランス「自殺詩」の運動
1890  ビスマルク下野
1898  キューリー夫人
      「ラジウム」発見
1906  セザンヌ没
新芸運動
1890〜1910
マーセルグラトー
マーセルアイロン
ポンパドール
フォルスヘア
チャールズネスラー
(1905)
明治時代 和 洋 混 交 時 代 1867 大政奉還
1868 明治維新
1871 断髪令
1877 西南の役
1883 鹿鳴館落成
1885 内閣制度実施
1888 「君が代」国歌とする
1889 大日本帝国憲法発布
1892 ロマン主義文学おこる
1894〜95 日清戦争
1900 北清事変
1904〜05 日露戦争
1910 大逆事件、日韓併合
1871・断髪令
1878・化粧水
(「小町娘」発売)
1883・鹿鳴館時代
和洋混合の風俗流行
1885・日本束髪会発足
夜会巻
束髪
1899・美顔術紹介される
1901・理髪業取締規則
「髪結いどころ」として繁昌
1910・クリーム等発売
ベル・エポック 1909  アンドレジ−ド「狭き門」
1909  メーテルリンク「青い鳥」
1910  ナイチンゲール没
1914  サラエボの凶変
良き時代
(1900〜1914)
ギリシャスタイル
バニシングクリーム発売
化粧は立体的、色豊富
1920年代 1914  第1次世界大戦
1916  アインシュタイン「相対性理論」
1918  ドイツ降伏、ドイツ共和制に
1919  ルノワール没
1920  ヴェルサイユ条約批准
1920  第1回ナチス党
1922  ムッソリーニ、ファシスト内閣成立
1922  マルタン・デュ・ガール
      「チボー家の人々」
1922  ソビエト連邦成立
1925  実用的テレビジョンの発明(米)
1926  モネ没、リルケ(ドイツ)没
1929  世界大恐慌おこる

ボーイッシュスタイル
「ギャルソンヌ」1992〜


ヘレナ・ルビンスタイン
化粧品の産業化


ガブリエル・シャネル


以後45年迄不況の時代
大正時代 1912 大正天皇即位
1912 タクシー始まる
1913 芸術座創立
1914 第1次世界大戦
1914 浅草オペラ開場
1917 人道主義文学論起る
1918 シベリア出兵、米騒動
1920 国際連盟加入
    日本最初のメーデー
1922 帝国ホテル落成
1923 関東大震災
1923 東宝映画設立
1925 治安維持法、普選法
1913・女子美髪学校
以後各地に学校創設

1918・理髪試験行う
女優まげ
国産リップスティック発売
マーセルウェーブ導入
洋髪
練り紅・水紅の使用
頬紅の使用
不況時代 1930  ロンドン軍縮会議
1931  英連邦の成立
1931  ヒットラー首相となる
1933  ルーズベルト大統領
     ニューディール政策
1936  日独伊防共協定
1939〜45 第2次世界大戦
ポンパドール型スタイル


ページボーイ


ヘアカラーの流行
昭 和 時 代 1927 金融大恐慌起る

1927 東京地下鉄開業

1931 満州事変

1932 満州国建国

    5・15事件

1933 国際連盟脱退

1936 2・26事件

1937 日中戦争起る

1938 国家総動員法発令

1939〜45 第2次世界大戦

1940 日独伊軍事同盟

1945 ポツダム宣言受諾
1930・パーマネントウェーブ
の導入



1940・贅沢品禁止
パーマネントの禁止




1942・電力消費規制
美容院の営業自粛



三ッ編、おかっぱ
シニョン

1950年代 1946  第1回国連会議
      パリ平和会議
1947  イタリア共和国成立
1949  北大西洋条約成立
1953  東ベルリン反ソ暴動
1953  エベレスト初登頂
      (ヒラリー、テンジン)
1954  インドシナ休戦協定(フランス)
1957  ECC共同体調印
     史上初の人工衛星
     スプークトニク1号
     の打ち上げに成功
パーマネントウェーブ
の一般化

美容室の増加

カールとウェーブの
小さな頭

マニキュアの大流行

ポニーテール
1960年代 1960  カミュー没
1961  ケネディー大統領
1964  中華人民共和国成立
1968  パリ大学デモ全国へ
1968  ケネディー暗殺
オーソドックスな
ファッション
ページボーイ
アップルスタイル
共にボリュームのある髪
クリスチャンディオール
1970年代 1971  中国、国連加盟
1972  ニクソン 中国訪問
1972  沖縄返還
1975  ベトナム介入終了(アメリカ)
1977  エルビス・プレスリー没
ロングの流行
ベルボトム
サングラス
サイケデリック
ビートルズ




床屋と散髪の境界線〜東海北陸地域と近畿地域との間で日本を二分〜
理容店は各地域によって、例えば関東では「床屋さん」、関西では「散髪屋さん」などと呼ばれているようですが、その分布はどのようになっているのでしょうか。そこで、調査を行ったところ、多少の例外はあるものの、以下のような結果となりました。

床屋

北海道 青森県 岩手県 宮城県 山形県 群馬県 栃木県 茨城県
埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 新潟県 長野県 山梨県 静岡県
愛知県 岐阜県 三重県 富山県 石川県 佐賀県 長崎県 熊本県

散髪屋

福井県 京都府 大阪府 奈良県 和歌山県 兵庫県 岡山県 広島県
鳥取県 島根県 山口県 香川県 徳島県 愛媛県 高知県 大分県
沖縄県              

床屋と散髪屋の両方使用

秋田県 福島県 滋賀県 福岡県 宮崎県 鹿児島県    

以上のように、ほぼ東海北陸地方と近畿地方との間を境界線として全国を二分することがわかりました。

「床屋」は地方に多く、「散髪」は都市部に多い、強いて言えば「散髪」の方が多いが、年配の人ほど「床屋」が多くなる。

まぁあくまで調査ですから・・・                   資料ー全理連


理美容師免許は国家資格です〜諸外国の資格はどうなっているの〜
日本で理美容師になるためには、一般的に理美容学校もしくは理美容専門学校といわれる養成施設で2年間(昼間課程)学び、卒業後に理美容師試験(筆記試験と実技試験)を受験して合格すると理美容師免許(資格)が取得できます。

理容と美容の業務内容の違いは、顧客の性別によって区分けされるものではなく、理容師はカット、シェービング、シャンプー、セット等を主たる業務と、また、美容師はパーマ、結髪、化粧等を主たる業務とするものと定義付けられています。
それでは、日本以外の国々では理容師や美容師の資格がどのように位置づけられているのかが気になるところですが、ここに理容・美容業界の国際組織の世界理容美容連盟(CIC)が加盟国を対象に行ったアンケート調査の結果がありますので、その中から5カ国の例をご紹介してみましょう。
なお、アンケートの項目は
A 理容・美容業務を行う場合、何らかの資格(国家資格など)が必要ですか。
B 資格の内容によって、業務内容の違いがありますか。
C 資格を取得するためにはどのような過程を経ますか。
D 貴国では、外国の理容師資格を持っている場合、従業できますか。

の4項目です。

○韓 国
 理容師または美容師になるには国家資格が必要。
 資格を持つ者のみ、規則に応じた内容に従って事業を行うことが許可される。
なお、理容と美容では業務内容に次のような違いがある。
理容=カット、シェービング、シャンプー、ヘアダイ(毛染め)
美容=カット、パーマ、シャンプー、ヘアダイ、メイクアップ、マニキュア
 資格取得のためには、養成学校で1カリキュラムにつき2300時間学ぶことが必要。その後、国家試験に合格しなければならない。
 外国の資格を持っている場合も、国の許可を必要とする。

○ オーストラリア
 ほとんどの訓練は研修によるもので、国の管理下にあり、国立学校での訓練も含まれる。訓練が終了すると許可証を受けるが、この許可証はヘアドレッサーとして働くために必要なものである。ただし、州によっては許可証の所持を要求しないところもある。なお、サロン所有者には資格は必要としない。
 ほとんどのサロンは、性別による区別はない。ヘアドレッサーは両方の業務につき訓練を受ける。州によっては、経験者がサロンの監督をすることを要求されるが、ほとんどが経験に基づくもので、さらに特別な訓練は要求されない。
 国のカリキュラムがある。訓練は「能力」中心で、そのための試験は必要ではない。その「能力」は、学校の教師が評価するが、場合によっては雇用者が評価することもある。研修期間は通常4年間。全日制学校の訓練は通常1年間。
 外国資格の場合、出身国の訓練水準がオーストラリアと同等であれば受け入れられる。その能力に疑いのある場合には試験が行われる。

○ カナダ
 ヘアスタイリストと理容師がある。州によっては協会が試験を扱うところもあるが、すべて国家試験である。
 州によっては資格の種類を区別せず、すべてヘアスタイリストとしている。
 私立学校またはカレッジで1500時間の訓練をするか5500時間の研修を行う。オンタリオでは、学校終了後、サロンで1000時間の研修も行わなければならない。
 外国資格では従業できない。希望者は、カナダの試験を受け、国外で訓練を受けたことを証明しなくてはならない。

○イギリス
 イギリスにおけるすべての資格取得は、国家基準に従って任意に行われている。厳正なる保健安全規則によって消費者を保護しており、個人および理容施設が大衆ならびにその他の雇用者を保護する適正な予防策をとることが必要となる。事故が起き、かつ予見可能な危険を回避するための適正な予防策がとられていない場合には、追訴される可能性がある。
 ヘアドレッサーは、顧客の性別に関係なく業務を行い、ビューティトリートメントを行うことができる。しかし、一般的にはヘアドレッシングを主たる業務とし、希望があれば、ビューティトリートメント専門の者を雇用する。なお、ヘアドレッシングとビューティトリートメントの内容は以下のとおり。
・ヘアドレッシング
 カット、シャンプー、セット、パーマ、ヘアダイ、シェービング
・ビューティトリートメント
 パック、マッサージ、トーニング、サウナ、日焼け、アロマテラピー
 資格取得のためには、一定の基準に達していることを示さねばならない。これは試験によって行われるもので、研修時間によるものではない。資格には以下の4段階がある。
 第1段階=ヘアドレッシングのアシスタント
 第2段階=ヘアドレッサー
 第3段階=上級ヘアドレッサーおよび監督者
 第4段階=サロン経営者
 訓練は実習で行われ、3年未満で第3段階に達するのは無理である。
 外国資格で従事できるが、常にイギリスの保健安全規則に従わなければならない。

○ フランス
 理容業務は、就業の資格を定めた法律によって規制されている。サロンを開業するためには、業務免許またはマスター免許を必ず所持していなければならない。これがない場合、店主は技術管理者の試験に合格して、免許の条件を満たし、サロンでの実地業務を保証しなければならない。
 資格の内容による違いは徐々になくなりつつある。さらに今後は、各県庁が理容美容業免許を交付する。養成内容および資格は徐々に多目的なものとなっている。
 資格を取得するためには、(1)サロンにおける実習と養成高校での教育、(2)理容師・美容師の期間3年間の研修、の2とおりの方法がある。研修の終了後、研修生は理容師、美容師職業適性証(CAP)段階を受験できる。CAP段階が終了すると、2年間業務に従事し、講義を受けた後、マスター免許(BP)を受験するために教育を続けることができる。CAPおよびBPは国家資格。
 外国免許では従業できない。フランスで就業を望む外国人理容師・美容師は、職業免許を取得しなければならない。ただし、EC国家については、メンバー国の法律に組み込まれたガイドラインによって、いくつかの条件下において職業往来の自由が規定されている。



チップ(tip)の語源〜理髪外科医の「瀉血」から生まれた!?〜
理容師が行っていた「瀉血」の料金は、当初、一定していませんでした。そこで、患者は身分や職業に応じて自分が出せるだけの金額を、あるいはその労働に値すると考えた金額を支払っていました。やがて、これがイギリス全土に広がり、宿屋や居酒屋などでもサービスに値する礼金を入れる小さな箱が置かれるようになりました。その箱にはなるべく多くのお金を入れてもらうために「To Insure Promptness(敏速を約束するために)」と書かれていましたが、この3文字をとって生まれたのがチップ(tip)という言葉で、もともと理髪外科医の瀉血から生まれたものだったのです。なお、「Take It Please(お気に召すまま)」から生まれた言葉という他説もあります。


バリカンはバリカンという名前ではない?〜本当の名前は・・・〜
理容店で使われている道具で、ポピュラーなものに「バリカン」があります。このバリカンは、器具としての名称は「クリッパー」といいます。では、なぜバリカンと呼ばれるようになったかといえば、日本に最初にもたらされたクリッパーが、フランスのバリカン・エ・マール(barignand et marre)製作所のものであったことに由来して通称となりました。記録上に「バリカン」の名称が現れてくるのは、明治40年になってからです。では、バリカンはどのように日本にもたらされたのでしょうか。記録によると、明治16年(1883)、在フランス日本公使館書記官・長田桂太郎が持ち帰り、鳥海定吉という理髪師がこれを使用して、以後、普及しました。明治17年12月4日の読売新聞にはすでにバリカンの広告が掲載されています。


ヘアカラーは外見と内面に影響する〜カラーによるイメージと与える印象〜
色は、無意識のうちに人の心に働きかけ、影響を及ぼすといわれています。色についてはヘアカラーだけでなく、洋服や靴、バッグや小物など全体にかかわる要素ですが、どのような効果があるのでしょうか。例えば、白と黒、橙と青という色に対して、「白」は軽く「黒」は重い、「橙」は暖かく「青」は冷たい、という印象をもつ場合が多いといいます。また、「赤」には情熱的、行動力、自己表現などダイナミックな印象、「黄」は朗らか、愉快、発展など積極的な印象があります。これら多くの人が共通して感じられる印象を色の固有感情と呼んでいます。これをイメージと与える印象とに分類したのが下の表です。これとは逆に、自分の経験による主観によって各人各様に感じられる印象を色の表現感情といいます。ヘアカラーは、ヘアスタイルの表現のバリエーション幅を広げるのと同時に、容姿、ファッション、ライフスタイルなど全体に調和した美しさを表現することを目的にしているものでしょう。同時に、若々しさややわらかさ、華やかさなど外見的な印象とともに、相手に対して心理的な印象も与えています。アメリカでは、ブロンド(金髪)が純真さと若さを連想させることから女性の4割がブロンドに染めているといいます。したがって、不用意な色を用いてしまうとせっかくの個性が台なしになってしまいますので、肌や瞳の色、普段主に着用する服装の色などから総合的に判断して色を選定しましょう。適切な色を見つけるためには、まずどのような色が希望なのか、そのイメージを正確につかむことからはじめます。次に、ご自分の肌や瞳の色を観察し、色のマッチングを行います。このように多面的に捉えて適切な色を判断するわけですが、その見極めは中々難しいものです。ご自分に最もフィットする色を探すときは、最初にヘアカラーのプロであるヘアスタイリストに相談してみるのがいいでしょう。それでは具体的に色の組み合わせをみていってみましょう。暖色系のトーンにはレッド、ゴールド、イエローなどのアクセントを、寒色系にはブルー、アッシュのアンダートーンを用います。また、カラーリングには特に、肌の色合いや顔型の特徴等の組み合わせが重要となります。一般的に、暖色系の黄色やゴールドを含んだ肌や瞳の場合にはゴールデンブロンドやレッド、ブルネット系のカラーが最も良くマッチします。逆に、寒色系のブルーやピンクを含んだ肌や瞳の場合には、アッシュ系の寒色系のカラーが最も良く合い、また、ルックスも自在にコントロールできます。また、明るい色は前に浮き上がり、暗く濃い色は後退する、ということを応用すれば、丸顔を細く見せる場合はトップでアシンメトリー(非対称)位置に明るいカラーに施すか、ヘムラインを明るいカラーで染めると額を広く見せることができます。頬をスリムに見せるためには、サイドをダークにカラーリングするのが最も良いでしょう。

カラーによるイメージと与える印象


カラー イメージ この色を着たときに
与える印象
この色を着た人から
のサイン
色の中で最も
ダイナミックで
強い色。
暖色
自己表現ができる強い意志
活動的
人間的で、本質的に気持ちが温かい
疲労か怒りがたまり、短気になっている。また、気合いが入っている場合もある。
スピーディな仕事を求めている。
ピンク 優しい、女性的
といわれる色
心豊かな優しさを持ち合わせる
責任感
世話好きがこうじて、おせっかいに感じられることも
幸福な状態。
きれいになりたいとも思っている。
誉めてあげると喜ばれる。
オレンジ 楽しい、
やかましい、
暖かい色
組織立てることがうまい
はじめたことはやり遂げる
形やデザインなどを得意とする
独立心強いが、人の世話もする
明るく、行動的になっている。
注目を浴びるような、明るく派手さのある提案が喜ばれる。
賑やか、楽しい、
ブライトな色。
暖色の代表格
明るく笑う、朗らか
強い印象を与えようとしている
会話がうまく、人気者
カウンセラー的な温かい性格
明るく冴えた状態。
人と話しをすることで満足度が高まる。
充分な会話が大切。
カジュアル、
フレンドリー、
安全、平和を
表現する色
お茶目で明るい(黄緑)
カジュアル
安心して相談できる(青緑)
勘が鋭い
寝不足か、もしくは家庭のことで何か気がかりなことがある気配。
ゆったりとした、ソフトな対応が求められる。
彩度の低い色。
他の色があって
はじめて際立つ
権威。自信に満ち近寄りがたい
スマート、冷静
ビジネスマン、政治家にダークブルーはパワーカラー
精神的にも肉体的にも静かな環境を望んでいる。
道具を扱う音や、会話などに配慮が求められる。
昔からあり、
日本人には
肌映りのよい色
芸術性にあふれ、感受性豊か
神経質で、他人を信用できないと思っている
人とは違うことを追求する
より美しく、気品が感じられるようにしたいと望んでいる。奇をてらうことなく、芸術性や個性も表現することが求められる。
明度が最も高く、
際立つ色。
日本人の最も
好む色。
毅然としている
一人でいるのが好きでも、寂しく真の友人を探している
自分の世界にいる
正直で素直な人を信頼したい気分。その期待に応える対応が重要。
清潔感あふれるストレートヘアを望んでいる。
明度の最も
低い色。
重厚、暗い、
または高級感を
感じさせる色
自信が感じられる
自信がなさそう(黒づくめの時)
格調高い
セクシー
面識のない人とはあまり親しくしたくない気分。音や言葉、温度などを気にしている。静かにセンスよく対応することが求められる。



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